2021/11/1(月)

昼過ぎまでこんこんと眠っていた。

解放された気分で寝ていた。まあ大学の課題などは山積みなのだけど、一つの大仕事が終わったのはこんなにも気持ちいいのか、と思ってごろごろしていた。


鬼滅の刃17巻を読んだ。あちこちで強いやつらが揃ってドンパチし始めて物語的に熱いところだが、ちょいちょい鬼殺隊側の主張に危うさが見え隠れしている気もする。

獪岳は明らかに「一歩違えば優秀な隊士だった」ことが描かれつつ「根っからのクズ」の面もあることが描写されてて救いがない。

幸せを入れる箱に穴が開いている、だから穴を塞がなければならない、という比喩は分かりやすいけどそれどうやって塞げばいいんだよって話なんだよな。穴の開いてないやつが「塞げばいいのに」みたいに簡単に言うなよって思う。簡単ではないと分かっているのかもしれないけど。

どうしたら満たされるのか、鬼滅の刃における回答としては愈史郎が言った通り「与えること」なんだろうけど、「与える余裕のない人間はどうすればいいのか?」「与えることで満たされるということをどうやって信じるのか?信じる能力のない人間はどうすればいいのか?」という問題が付きまとう。別に害をなすことを始めから志向していた訳じゃなくて、どうしても満たされなくて今まで関わった全てが憎くなって害を撒き散らす存在に成り果ててしまったわけで、それって救う余地ないんですかってなる。クズになりたくてなったんじゃないのに、心に穴が空いていてその塞ぎ方が分からないだけにクズにならざるを得なかったわけで、結局そういう人間は奪うだけの鬼になるのが避けられないとしたら、世知辛すぎる。

猗窩座は本当に純粋に戦いが好きなんだなっていうのが伝わってきて普通に好感度高いんだよな。「杏寿郎はあの夜死んでよかった」のセリフもなんか、炭次郎の好感度を下げるためにわざと言わされてる感を感じてしまった。純粋に戦いを愛していて炭次郎の成長を見たんだから、「弱者も放っておけば強者となって楽しめるかもしれない」「杏寿郎もまだまだ強くなったかもしれないのに惜しいなあ」みたいに言うんじゃないかと思っていた。手前勝手な解釈をしてしまっている感は否めないが。

本当に戦うのが好きで、それでどうしても「別に戦いを望んでいるわけではない強者」を闘争に引きずりこんでしまうところが炭次郎との衝突点なんだろうなと思う。

さて獪岳と猗窩座については色々語ったが、童磨は、うん…

こいつはまあ仕方ないな…


このはカレンダーめくった。シンプルで落ち着く背景の絵いいぞ。

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