昨夜は夕飯を食べる前になぜか寝てしまい、今朝2時くらいに起きた。流石にこれは二度寝して朝まで寝ようと思ったが寝れないので起きていた。
ハクメイとミコチを読み返していた。1巻を久々に読んだのだが、新しい巻と比べるとまあ顔の作画が多少違う他、背景の書き込みも若干少ない。もちろん1巻のころから背景ははちゃめちゃに精緻に描いてあってすごいのだが、新しい巻ではそこからさらに進化している。少しづつなので気付かなかった。
ジョギングに行った。とても気持ちよかった。足があるべき軌道に乗ったまま滑らかに動き、足が車輪になったように感じた。
走り方を変えたせいか、右膝に痛みという感じは出なかったのだが、薄い違和感が持続する感じになった。明らかな痛みが出ればやめようということで決められるのだが、この薄い違和感でもやっぱり無理をしない方が良いのだろうか。大事をとって途中でやめた。
散々痛みを覚えている右ひざは、割と前からすごーく薄いあざがある。ぶつけたような記憶は無いのだが、ジョギングの蓄積だけでそうなったりするものだろうか。
つま先着地で走った結果、拇指球が痛くなった。習慣的にやっていれば肌が分厚くなって気にもならなくなるのだろうが、どれくらい続けたらそうもなるのか。
腕立てをやった。なんか、ちゃんと上げることを意識した結果、ちょっと楽をして上げてしまった気がする。でもちゃんと上げないと負荷かからなそうだし、むしろまだまだ膝付きにしていってしまっていいのか?
マーク・トウェイン「人間とは何か」を読み進めた。やっぱり自分の目に狂いはなかった。すごく、ものすごく波長が合う。
本で繰り返し語られる「人間は結局のところ自分の利益を求めるものでしかない」というテーゼは自分が小学生の時考えていたものと全く同じものだった。つまり、一見他人に利するための行動だとしても、最終的にはそれは自己の心の充足を目的にしているのだということ。全く他人のためというのは存在しないということ。
自分が小学生の時はこの「結局人間は自分の心の欲するところに従っているだけ」という命題について考えを進めた結果、例えば人間以外にもネコでもアリでも機械でも「自分の欲するところに従って動いている」という風に解釈してしまえるということに気付いた。それは(人間のような)心の存在しない機械とかにまで欲とか心とかを見出すことになる。そして「欲するところのもの」「自分の利益」に適当な概念を放り込めば何でも説明出来てしまうという点で、矛盾は起こさないにしろナンセンスな哲学にしかならなさそうだなということでこれを放り出してしまった。
が、この本ではそんな変なところに陥ってはいない。心がどうとかいう以前にまず機械というものから入っているのが上手い。まず蒸気機関にしろ何にしろ色々な機械があり、人間の心はそれら数多の機械のなかの一種である、という論理構造なので前述の自分のような何にでも心を見出すナンセンスには陥りようがないのだ。
自己の欲や利益に適当な概念を放り込めばなんでも説明できてしまう、という部分についてはやはりちょっと似たところに陥っている気はするが、この本ではその辺ももう少し高い解像度でかみ砕こうとしている気がする。例えば、そうした自己の欲や利益は何によって決まってくるのかという部分について、「教育」や「世論」「環境」といったものによって決まる、また自己自身によって決めることは出来ず外からの作用でしか決まらない、内的な考えも結局外から来たものや外から来たものを材料として生まれた・育ったものである、といった具合でちゃんと説明をしている。
うーん。これは小学生の頃の自分に届けたい。性格が今以上にひねくれそうだけど。
Categories: 未分類