2025/1/2(木)

手塚治虫「やけっぱちのマリア」を読了した。今の目で見ると性的うんぬんという以上に、伝統的性役割の強化だみたいにリベラルから怒られそうな部分が多すぎる。そうでもないんだろうか。

もう全編に渡って勢いとプロットの秀逸さで押し切っているが、マリアの立ち位置が八面六臂である。最初は妊娠したと言い張るヤケッパチの子供(?)という立ち位置で生まれ、やがて恋人(?)になり、最後に序盤で示唆されていたように母親のような視線でヤケッパチを送り出す。ダッチワイフに憑りついたエクトプラズム少女という突飛な設定以上にこのキャラの関係の大胆な移行が地味にとんでもない気がする。

終盤の方でマリアの身体を直すなら10万円よこせというシーンがある。本筋とは関係ないがどうやら今の感覚の10万円より大ごとらしい扱いだったので当時の物価を調べてみた。算出方法次第だが3~6倍くらいの感覚らしい。

最後のヒロインがぽっと出過ぎないかの気持ちになったが、ヤケッパチがマリアを通して精神的に成長する(より正確に言えば、男女の役割と意味を知り男らしさを身に付ける)のが主軸なのでマリの人間性に紙面を割くのは恐らく物語上の意味がないのだろう。人間のヒロインの座を埋めて雪杉みどりに引導を渡せればそれでいいみたいな立ち位置に見える。結婚し性交し子供を産み育てるという枠で男女論を築くなら人形のマリアと結ばれてENDという訳にはいかんし、というか子供が産めないという以上に己の子供(?)と結ばれるという問題もあるし、二重の意味で厳しい。

マリアの立ち位置は子供・恋人・母親と変わっていったが、全体通してマリアはヤケッパチの半身という風に語られていたので、外に現れたイマジナリーフレンド=自己の半身とそれとの合一として読むのが良いのではないかと思う。ダッチワイフの身体は捨てられるが最後エクトプラズムのマリアはヤケッパチの鼻の中へ入っていくのがその象徴だと自分は受け取った。鼻は魂が抜け出るところというのは昔からある言い伝えだ。突飛なテーマと物語だが主軸は普遍性のある所を押さえるから手塚治虫は偉いぜ。


celesteをした。9面の序盤の練度が下がっていた。何度か練習したらEvent Horizonまで金イチゴを持って行けた。


酒粕を使って甘酒を作ってみた。砂糖と一緒に水に溶くだけで思ったより簡単に出来た。

熱々のときよりも、多少冷めて人肌より少し温かいくらいになったときの方が香りがよく分かる気がする。何にせよ美味しい。

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