課題と仕事がひと段落したんだかしてないんだか良く分からない状態になり、一息つけるんだか良く分からない状態になって頭が溶け出した。
要するに、多分一定のレベルで落ち着いたのだが頭が回らないためにそれが認識できない。
オイディウス「変身物語」(岩波文庫)を読み進めた。
…あの蛇を殺したことを、かくも明らかな怒りによって罰しようというのが神のみ心なら、願わくば、このわたしも、蛇となって長い体を横たえたいものだ」こういったかとおもうと、もう蛇となって、ながながと身を伸ばしている。
速い。速い。速すぎる。なんというスピード感だ。並みの即落ち2コマですらこのスピード感は出ないぞ。なんていう速さなんだ。
この調子の展開がそこかしこにあるので中だるみしない。強い。
今日読み進めた範囲では「エキドナ」「テミス」などの胎界主の司神の名前で出てきたようなのをチラチラ目にした。
Twitterとブログという2種類の媒体の使い分けを考えるうち、「残すこと」と「(能動的に)報じること」の両方を行うことになるのがTwitterで、前者だけを行うことになるのがブログなのではないか、ということを思った。RSSとかも考慮に入れるとまた違うかもしれないが。
さらに付け加えると、「言語化する」という要素もある。これはブログでもTwitterでも当然行う。一時的なメモ行為などは「残すこと」も「報じること」もないが、「言語化すること」は行う。
何が言いたいかと言うと、「言語化する」「残す」「報じる」の例えば「言語化する」だけしか求めていないのにTwitterでつぶやいたとすれば、それは無駄かもしれない。また「言語化する」「残す」までしか求めていないならブログを使えばいい。なんとなく使い分けの考え方がまとまってきた。
ただもう少し考えると、恐らくこう一筋縄の問題ではなくて、おそらく本人も共有の価値が無いと思っているようなものをも共有した結果として新しい繋がりが生まれる、みたいな部分の価値がある。「報じる」までも無いと思われるようなものをも一律に(無視されても良い)”呟き”として共有することで偶発的に何か新しい価値を生み出そうというのが本来のTwitterの思想のような気がする。(開発者の人そこまで考えてないと思うよ)
仮にそうすると「報じる」価値のある(と思っている)ものだけをツイートするというのは何か違いそう。まあ、そもそも根本的な問題として報じる価値のある情報を殆ど持っていないのだが。
あともう一つの問題として、「言語化する」にも「内なる言語化」と「他者の目線を伴う言語化(あるいは外へ向かう言語化)」でまたやや別問題なのではないかという点だ。そう考えると「ただの言語化までしか求めてないのにそれを共有する必要はない」というのは必ずしも真ではないと考えられる。ただ、自分の場合は自分の目自体が割と他者のようなところがあるのでその2者にあまり差が無いが。(それはそれで精神状態的にどうなんだ?)
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