・前々から、優れたゲームを作るためには「プレイヤーが何をできるか(歩ける、ジャンプできる)」と「何を目指すのか(敵を倒す、ゴールにたどり着く)」をプレイヤーの体に染み付ける必要があると考えていたのだが、今日たまたま倫理学を学んでいてデイヴィッド・ヒュームが「人間は『信念(世界はこのように出来ているという確信)』と『欲望(世界はこうあって欲しいという心理)』の両方がないと動かない」と主張しているらしいことを知った。まんま同じ考えじゃんということで面白かった。権威におもねりたくはないが、有名な哲学者と似た考えを独自に思いついたというのはやはりどこか嬉しい。
しかし上記のヒュームに関する記述はここを見ての話なのだが、どうも他のところを見ても似たような記述があまり見当たらない。調べた感じ「欲望」は「欲求」と訳されたり「動機」と訳されたりして固まってないっぽい?これの記述を見ると今の学者によるヒューム思想の解釈自体も若干分かれてるっぽい。うーん。
原典としては多分「人間本性論」なのだが、全3巻とかで一冊一万とかするっぽいのでちょっと手元には置けない。図書館で見かけたらぱらぱらめくってみたい。
ハイデガーの「存在と時間」とかもべらぼうに長いから、要所だけでも読んでみたくはあるけど手元に置こうという気がしないんだよね…そういう本はちらほら。
・引き続き熱力学を再学習。エントロピーがやはりよく分からないというか、温度も同時によく分からなくなってくる。
統計力学を使って考えれば、「確率的にはあらゆる状態が出現しえて、その全ての状態数は膨大になるけど、ミクロに見れば違う状態でも各状態量が同じ状態はマクロな視点で同一視される。マクロな視点で同一視されたミクロな状態数の多寡がエントロピー」ということで、エントロピー増大則とかかなり自然に納得できるのだが、EMANさんは統計力学使わなくてもエントロピーは分かると言って譲らないっぽいのでせっかくだから熱力学単体で納得してみたい。
EMANさんの物理解説は分かりやすいのが多いのだが、熱力学は熱力学的温度の導入のくだりがどーもよく分からないというか気持ち悪い。カルノーサイクルという仮想的な装置が出てきて、理想気体という仮想的な物質が出てきて、それを使って議論して、その結果が実在気体の場合にも成り立つものだと定義する、というのが「本当に矛盾起きないの?」という感じがする。そしてカルノーサイクルの議論自体に温度の話題が含まれているのも読者視点では循環論法くさい。
この記事に載っている「伝統的なやり方」は分かりやすかった。とにかく熱機関の効率には限界が存在して、その限界が温度に関する関数の比で表せて、比で表せるんなら温度の定義自体をその関数に比例するものにすればいいよねって感じだ。
あと、そもそも「温度目盛りが作れる」という部分はどう保証されるのか謎だったのだがこれは第0法則で、熱が勝手に移動する方向を使って高温・低温は定義できるのだった。とにかく物質には温度という謎の値が存在する。んでその多寡は熱=エネルギーが勝手に移動する方向を使って定義される。で納得した。
逆か。エネルギーは(なぜか)接した物の間を勝手に移動する。そして(なぜか)その方向には決まりがある。ある種類・ある状態の物質と、別のある種類・ある状態の物質を鉢合わせると、その組み合わせによって熱の移動方向はなぜか必ず同じ方向に決まる。で、その熱を与える・貰うのヒエラルキーは(なぜか)どうも全順序になっているらしい。ので、そのヒエラルキー上の位置が温度目盛りとして定義できる。なるほど。
あれ、そうすると「熱をもらうと温度が上がる」「熱を出すと温度が下がる」はどっから来るんだ?これも「なぜかそうなる」実験事実?
とにかく物質は熱という何かを持っている、は第0法則の更に前提にある?
・外へ出たらたまたまご近所さんと鉢合わせたのだが、そこの子供が近寄ってきて「こんにちわ!」と元気よく挨拶するのでこちらも挨拶を返した。こっちを見て「ピカチュー!」などと言うので「ピカチュー好きなの?」と聞いてみたら「きらい!」と答えた。子供のことばの奔放さは最高だな。
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