世の中の状況というものは全てただの素粒子の配列パターンに過ぎない。そう考えると、何もかもが「別にいいんじゃないの」と思えてくる。そこに「○○はあってはならないことなのだ」みたいな概念はない。何せただの数値パターンなんだから。すると目の前の光景をただ光景として捉えることができる。世の中がどのようであろうと本質的には全て同じなら、どんなであっても変わらない。するとあらゆる存在を全否定するか、全肯定するか、選択を迫られる。ならば、肯定してしまえ。そして世界の全てをありのままに肯定できる。

しかしそのような考えをもったところで、悲しい事には悲しくなる自分がいるのだ。全肯定の精神を以て幸福を目指したのに。しかし、全肯定を愚直に実行するならば、それすらも肯定するべきものなのである。つまり、全肯定の精神を実行しきれていない自分をも肯定しなければならない。

そのようにして一周回ると、最初と何も変わっていないのではないかという風に考えが至る。

悲しいもんは悲しいもんだ。嬉しいもんは嬉しいもんだ。腹立たしいもんは腹立たしいもんだ。つまりこれは、何も変わらない、普通の人の在り方である。

一周回って戻ってきた自分は一体なにが変わったのか?全肯定の精神は一体なにかをもたらしてくれたのだろうか?というのをしばしば考えていた。

自分が思うに、もたらしてくれたものは「納得」である。

人はただ感情のままに動き、認められないものを否定されるべきものと思いこむことがある。しかし「それ」は存在しているから、「否定されるべきもの」であることに矛盾する。そうして納得できなくなる。

納得できないということは世の中を理解できていない、あるいは(望むと望まないを問わず)理解を拒んでしまっているということであり、その結果生まれる行動は時に悲惨なほど滑稽である。

一周を経験していると、どうせ全部同じだということが分かる。だから「それ」があっても構いやしない、という考えももつことができる。しかし自分の心は負のベクトルへ反応するのだ、これは解決せねばなるまい、といった形で「現状への納得」と「問題解決への行動」をおおまかに両立させて行うことができる。

常人が全肯定の精神を出来る程度にやったところで、仙人のような超越的な視点を得ることは出来なかった。物語の中の聖人のような在り方にもなれなかった。だがそれでも別にいい。それこそ我々が肯定すべき事象である。

自分はこの「納得」一つだけとっても、ああ良かったなあと思うのだ。