こころとからだの認識の仕方について
ふとした考えなのだが、ネットを見ていると世の中にはどうも、自分の「からだ」ないしは「こころ」について2種類の認識の仕方をしている人がいるように思う。これはあくまでざっくりした区分けであり、世の中の人全てがこのどちらかに分類出来るという話ではないし、中間的な人も混合的な人もいる。またこの文章はそのどちらかを批判しようといった趣旨のものでもないことをあらかじめ断っておく。
まずひとつに、ある種の人間は自分の「からだ」の外見をとことん非本質的なものとみなし、また意識的にそれにかかずらわないようにしている。身体の外見と人格を結びつけるのは前時代的な仕草だと信じている。一方で道具としての、人間の生命活動を実現する機能物としての「からだ」はそれなりに大切にする。よく食べ、よく寝て、働きすぎずしっかり休む人間が正しく、運動も出来るならした方が良い。思い出したように筋トレを行い、リングフィットアドベンチャーを人におすすめする。「からだの外見」と「からだの機能性」は切り分けて考えるのである。
この種の人の面白いところは「メンタル」という概念を駆使するところである。メンタルはつまり「こころ」であるが、これを人格ではなく、機能物としての「からだ」に近接させて考えるのである。「メンタル」の浮き沈みはストレスの源を遠ざけ、食べて寝てしっかり休んで、楽しいことをやると回復する。要するに適切な操作、技術的な介入によって制御できるものだという考え方がどこかにある。そして自分が思うにこの種の人は、この「メンタル」を観測(ないしは操作)する主体をどこか「メンタル」とは別のところに暗に仮定しているように思う。「自分の心はいま沈んでいるな」と観測する主体、これは「自分」ではあるのだろうが、しかし「自分の心」とは別の何かなのである。「自分のたましい」とでも呼べばいいのだろうか、とにかくこれの存在が仮定されていると考えないとこの種の人の論理は通らないように思う。
もう一つ別の種類の人間がいる。こちらの種類の人間は「からだ」をあまり分けて考えることがない。「からだ」の見た目、はたらき、その総体を重要視する。見目形が他者に肯定されればそれは当然「私」の肯定であり、うれしいことなのだということを知っている。自撮りをSNSに上げて憚ることがない。また、「こころ」と「たましい(と便宜的に呼ぶ)」の峻別もあまりしない。文章を書くならばそこには特に遠慮なく自分の感情を交える。その文章の書き手は「私のこころ(メンタル)」を客観視できる「私のたましい」なのではなく、「こころ」と「たましい」の混ざった(というか未分化な)総体としての「私」なので、文章に自分の感情を入れることに対し疑問を持つ理由は無いのである。「私のこころ」と「私のからだ」の全てをひっくるめて「私」なのであり、それが承認され肯定されることによって幸福になれると思っている。
自分はどちらかといえば前者の人間であった。ただ、最近になって後者の思考もなんとなく理解できるようになってきた。
前者の思考は端的に言えば分析的な思考であり、また実用的な思考である。感情を交えず、否、感情をも分析の俎上に上げて、「たましい」の目指すところを実現するのである。が、この思考法には一点、根本的にどうしても避けようがない欠陥がある。それは「たましい」そのものを分析の俎上には上げられず、また「たましい」とそれでない部分の境目を窮めることには無理が伴うことである。
後者の思考は、悪くいってしまえば非分析的で感情的な思考なのだが、ある面において科学的に正しい考え方でもある。なぜかといえば、からだとこころの間に物理的な境界線などないし、それを分けて考えられるということ自体が人間による一種の幻想だからである。何かと何かの間に境界線を引くことができる、という考え全般は人間の勝手に見出したものでしかない。「私」を細かく切り分けて考えることを諦めるのは一種の正しさではある。