世の中の多くのもの、というより恐らく全てのものは、究極的に力動の原理を究めていくと微視的なものになる。微視的な原理というのは、つまり「ある物体の動作の原因は、その物体自身とその物体に極めて近い領域の物体だけで説明される」ような原理である。

例えば電磁気学において、クーロンの法則やアンペールの法則はあたかも離れたところにある物体同士が力を通じ合うような法則を主張する。しかし時代が下るにつれ、それらはマクスウェル方程式とローレンツ力というより根源的な法則に集約された。これらは微分方程式であり、空間のある点の電場や磁場は非常に近い点の電場や磁場のみに影響されることを主張する。つまり微視的な法則である。

あるいは生物の生態系を考える。安定的な生態系ではそれぞれの種の個体数がほぼ一定に保たれるが、これは以下のような機序による。すなわちある生物種Aの個体数が増えすぎると、種Aの捕食者がその種とよく遭遇するようになり捕食される回数が増える。またAの被食者が捕食されて個体数を減らし、種Aがあまり食糧を食べられなくなる。これによって増えすぎた種は個体数を減らすことになる。種Aの数が減った場合は逆のことが起きて個体数が増えることになる。こうした機序は、各個体というミクロな存在の「獲物を見つけたら食べる」「食べられないと餓死する」という性質のみによって説明される。

このように、現象の原理はより根源を追っていくと、小さな存在とその周りの小さな領域のみに通じる法則に帰結する。大きな領域の法則も、そうした小さな領域の法則の連なりで説明される。数学の言葉のアナロジーで言えば、大きな領域の法則は小さな領域の法則の積分形である。

さて、物事の原理というのはより根源に近いほどより微視的なのであり、微視的なほどより根源に近いのであるが、かといって巨視的な、つまり大きな領域の法則を説明することの価値が低いわけではない。むしろ多くの場合において、より求められているのは大きな領域の法則なのである。

物理の世界においては、巨視的な法則の方が既知であって微視的な法則の方が未知であることが多い。これはひとえに人類のサイズが原子や素粒子よりはるかに大きいからだ。しかし、世の中には微視的な法則の方が既知であって巨視的な法則の方が未知であることが沢山ある。あるいは、微視的な領域の法則も巨視的な法則も分かっているがどうにも結びつけることが出来ないという場合もある。こうした場合になると、人は大きな流れが予測できないことに困難を感じたり、あるいは既知の巨視的な法則がいつか破れるのではないかと不安を抱くのである。

例えば昨今よく取り沙汰されるニューラルネットワークによる深層学習であるが、内部的にやっていることは究極的には四則演算であり、未知の要素は何もない。人間がプログラミングして実現しているのだから当然である。しかしそこから画像の識別や文章の生成がどうやって実現されているか、なぜ成功しているかというと全く分からない。これは微視的な法則は既知であるのに巨視的な法則とのつながりが分からないという好例である。

あるいは、人間や社会の仕組みを明らかにする人文科学系統の試みも似たものがある。人間というのはどういうものか、という探求は果てしない大昔に始まった。現代に入って神経細胞なりニューロンなり脳の微視的な仕組みが次々と明らかにされたが、それでもその探求は終わらない。巨視的な脳の挙動の説明は未だに誰にも出来ていないからだ。社会の研究ともなるとさらに大きな世界を取り扱うことになる。人と社会の振る舞いを説明するにあたっては古今東西様々な学者や活動家、宗教家が色々な法則や理論を主張してきたが、それらはどれも部分的に正しいようでありながらまるで見当違いなようでもあり、「大勢の支持を集めた『社会理解の普遍的で一般的な理論』」というものは無いように思われる。

なぜ人が「大きな流れ」の理解を求めるかというと、大きなものの構造が先立ち、その部品として小さな構造が現れてくるという方が人間にとって「理解しやすい」し「記述しやすい」からだ。ここに自然の実態と人間の認知との矛盾がある。

物事の原理は微視的であり、それは既に明らかになっているとしても、人は巨視的な秩序の説明を求め、そちらを「真実」として重要視する。巨視的なふるまいというものの果てしない謎に分かりやすい説明を与えられると、どうも人はそれを有難がる傾向にある。その説明が正しいか正しくないかは別として。

原理というのは絶対である(絶対でなければ原理ではない!)ので、原理が破れている場合というのを考える必要はない。原理が破れているように見えたなら、それはより正しい原理が別にあるというだけである。しかし、巨視的な認識上の秩序というのは容易に破れうるものである。真実はミクロの世界にあって、マクロな秩序は人間がそのミクロの真実の集積を分かりやすく捉えなおしたものにすぎないからだ。マクロな世界の論理は微視的には容易に破れる。つまり、マクロな世界を語る言葉に絶対の真理はほぼ100%ありえない。それでも人は、マクロな世界を言葉で語らなければ生きていくことはできない。膨大なミクロの真実の丸ごとを捉えることは、単純に情報量と観測能力の問題で人類には不可能だからだ。

そういった理由から、仮に微視的な物事の全ての原理と全ての情報を知ることが出来たとしてもそれは人間が世界を捉えるのには不十分で、何か一部を切り落とすことになろうとも、分かりやすくマクロの話に「翻訳」しなければいけないのである。

この「翻訳」に正解はない。膨大な情報量である真実を人間が認識できるレベルに単純化するならばどうやっても何かを切り落とすことになるし、切り落としていい部分と切り落としてはいけない部分の区別というのは(行うとすれば)この「翻訳」の後に行われるものでしかないからだ。

微視的な原理を解き明かしたり、既知の巨視的な秩序を微視的な原理に帰着させるのが科学者の仕事とするならば、微視的な真実を巨視的な秩序に解釈・翻訳するのは人文学者の仕事の性格を持っているように思う。少し語弊を招く物言いかもしれないが。

マクスウェルは、マクスウェル方程式から電磁波の存在を予言した。マクスウェル方程式という原理を突き止めた時点で既に「真実」はつかみ取られていたのである。しかしマクスウェルはさらに「波の伝播」を見出した。空間の中で「波」という広がりを持った実体が飛び交っているというイメージ、これは「空間の任意の点とその近傍で確かにマクスウェル方程式が成り立っている」ということだけからは認識しえない「マクロな世界の解釈」である。このマクロな解釈があることによって、人は世界に「"電磁波"と名を付けて世界から切り出しうる何か」があることを認識し、今日ではそれを通信や送電などあらゆる場面で利活用するようになった。

より根源に近い真実を求めること、原理を見つけることはとても重要だ。それは世界の動きに対し、より優れた完全な説明を与えるからである。それは純粋な知の探究の最終目的地だ。しかし、微視的な真実と原理は世界を一様の灰色にしてしまう。そのような世界認識は時に無用の長物でしかないのである。例えば「なんで私はあの人に振られてしまったのだろう」などと嘆いている人は、ほぼ間違いなく抽象的な恋愛論や精神論的な話を求めている。「人間の大脳は140億の細胞から出来ておりこれがこのように動いて……」などという話をしても何の役にも立たない。それではあまりにも具体的すぎるのである。

マクロな世界を生きる私たちにとっては、微視的な原理を積み重ねた結果として現れる巨視的な秩序の方がはるかに実用的なのだ。既知の微視的な原理から演繹して巨視的な秩序法則を導出すること、また既知の巨視的な法則の成り立つ説明を微視的な原理によって裏打ちすることは、微視的な原理を追い求めることと同じくらいに重要なものである。