この書き物は以前に書いたものの続きみたいなものなので、当該の文を必要に応じて読んで欲しい。

https://k.foolslab.net/writing/essay-14

自分は「再現性があって」「美しい」ものが好きだ。それはなぜか?唯一性が保証されるからである。

ある一つの「美しい」ものを見つけたとき、普通の感覚を持った人ならば、それを保持・保存したくなるだろう。しかし絵なり編み物なり、一品ものの作品というのはどうしても永久に保つということは難しく、多くの場合は年月とともに劣化していく。焼き物などはあまり変わらないかもしれないが、それでも事故などで割れてしまったらもとに戻らない。一品ものというのはとにかく不安定で、経年で変化してしまうし、一度壊れてしまったら二度と同じものは出来ないのだ。そしてここからが大事なことなのだが、一品ものはそのことが逆説的に「唯一無二でない」可能性を生じさせている。

どういうことかというと、例えばあなたはある日とても美しい作品を作り出したとする。この作品は唯一無二の自分のオリジナル作品であり、また自分はこの作品を作り出したこの世で最初で最後の人間であり、今自分はこの世の誰一人として未だ見たことのないものを目にしていると信じたくなるかもしれない。しかしである、これまでの人類の歴史の中で数多く作られた無数の一品物の作品の中に、今自分の作った作品と同じような作品が一つでもなかったかというと、証明しようがないのだ。

今自分は本当に素晴らしい作品を新たに創造した気分になっている。しかしその作品と同じようなものがこれまでに一つたりともなかったということは証明できない。今までに誰かの手によって生まれ、やがて劣化し摩耗し消えていった作品の中に実は似たようなものが存在していたのだとすれば、それは「本質的に新しい」創造ではないことになる。誰かの踏んだ道を再び歩いているだけだ。

誤解の無いよう言うと、「本質的に新しい創造」でないからといってその作品が「美しくない」訳ではない。この両者は独立だ。ただ、自分は両方を兼ね備えている方がもっといいよねという話をしている。

さて「再現性」の話に戻る。「美しい」ものを見つけたならば、普通の感覚で言えば人はそれを保持・保存したくなるだろう。では、それが「再現可能」なものだとしたならば?当然人はそれを再現するだろう。美しく再現性のあるものは、人にそれを再現させ無限にコピーさせる。そしてこのことが逆説的に、「唯一無二である」ことを保証させるのだ。

日本人であれば多くの人が「折り鶴」を知っているだろう。これまで何億羽の折り鶴が折られたのだろうか?考案したのが誰かは知らないが、何百年もの間人々は折り鶴を美しく感じ、再現してきた。

仮に自分が「折り鶴」に匹敵するほど美しく、「折り鶴」に匹敵するほど簡単に折れる新しい折り紙作品を作れたとしたならば、自分はそれが「本質的に新しい」創造であることを確信することが出来る。なぜならば、仮にこの世に一度でもそれと同じものが生まれたことがあるならば、今この世にその作品が残っていなければおかしいからだ。美しく再現性のある作品は、一度でも生まれて公開されたなら必ずその後半永久的に生き残る。ゆえに今の世に無いということは、これまでに一度も生まれたことがないのだと考えられる。

「折り鶴」はこれまでに何億羽と折られただろうが、その全てが「折り鶴」という単一の折り紙作品に帰着する。ゆえに折り鶴という作品は唯一であり、これまでに折られた無数の折り鶴はそれを現実世界に見える形として映したものと捉えることが出来る。これが自分の言う「唯一性」の意味するところである。

再現性のある美しい芸術というものは、再現するにあたってはその美しさを何度でも体験できることが魅力であり、また制作するにあたっては世界に誰も残したことのない足跡を残したという大いなる価値を感じることが魅力だ。以上が自分が再現性のある美しさを愛する理由である。

追記:

補足すると、実際の人々は重要な情報を絶やしたり技術を途絶えさせてしまうことを何度も繰り返してきた。なので「美しく再現性があるなら必ず半永久的に生き残る」というのは当然理想論である。ただ、これは理屈や実質の話ではなく、自分の個人的な(根拠のない)信仰なのである。意味のある情報は必ず誰かが複製・保存・再現しており、作者の手を離れても必ず生き残っている、生き残っていなければならない、生き残っていてほしいという祈りが自分の根底にはある。

そしてこの「複製・保存・再現」の段においては、それが誰でも行えるものでなければならない。だから前の記事でも述べたように、多大なる錬磨が必要かつ個人個人で結果を異にしてしまう「感覚の技術」はこの輪の中に入れようにも入れられないのである。「感覚の技術」を言語化し厳密化し不要な部分を削ぎ落し「方法の技術」に改めることはとても重要な行いと言えるだろう。

自分は「上手く言語化できないけれど、いいなあ」と何かを感じたときに、それを徹底して言語化することを試みる。言語化することで失われるものがあるという面があるのももちろんなのだが、言語化されない限りはどこにも保存されえない。

言語化前の感触の生データが最も美しいのは間違いないから、自分は感触(結果)ではなくそれを生み出す技術(方法)を言語化することをより好む。例えば難しくやりごたえのあるゲームをクリアしたときの感動を完全な形で言語化することは不可能かもしれないが、難しくやりごたえのある楽しいゲームを作る方法は言語化することができる。それによって言語化不可能なものを間接的に保存・再現することができる。