最近思うようになったことだが、「自分」の範囲というのは非常に曖昧だなあと思う。

一体自分とは何か?というより、どこからどこまでが自分という存在なのか?

例えば、今いる場所の床だとか、あるいは隣にいる人が「自分」か、と聞かれたら大半の人は「いいや」と答えると思う。

目の前のPCやスマホなどはどうだろう。使い込み過ぎてもはや自分の一部だ、みたいな人もいるかもしれないが、別に取り上げたって生物学的に死にはしない。

では「自分の体」などはどうだろうか。腕などを動かしたりするのは全て自分の意思でできて、この意味では自分の一部だ。しかし、例えば全力疾走を1時間維持しろ、などと言われたらそれは無理だろう。その指令の意味を理解できても、その指令を反映させることはできない。つまり、意思の下に完全に自由に動くものではない。

あるいは、「もっと筋力ほしいな、よし筋力増えろ」などと念じてみる。しかしそれは間違いなく何も起きないだろう。それで、実際に体を動かして鍛えてみる。そうすると、筋肉がよくつくヤツもいるしなかなかつかないヤツもいるだろう。鍛え方が違うのかもしれないし、体質が違うのかもしれない。それでトレーニングの参考書などを読み始める。なるほど、このようにするといいのか!こうするのはあまりよくないのか!

操作することに関して技術介入が生じるもの、あるいは主観的に把握できない内部状態を持つものと考えると、それは外部のものに思えてくる。「自分」と呼べるものではないように思えてくる。

こうしてみると、真の「自分」とは自分の精神だろうか?恐らくそれも違う。辛いことで鬱にもなれば、興奮で思考が落ち着かないこともある。眠気で意識が断絶もされる。となりの騒音で集中力が途切れたりもする。誰かの言葉でやる気が途切れたりもする。精神などというものを切り取っても、周囲の世界と独立した、単体の「自分」などと呼べるものは出てこない。

ではもっと切り取ろう。「意志力」は恐らく自分には含まれない。やる気は出たり出なかったりするから。「集中力」も恐らく外れる。眠気なり空腹なりの要因で簡単に変わってしまう。「思考力」も同様だ。このように切り取っていくと、何やら「とにかく考えている自分」が残るのではないか。

思考力は外部要因で変わる。しかし、ふらふらなときでも「ああ、おれはとにかくなんかやってんな、なにやってたっけ」など考えてる自分はわりかし、いる。滅裂な思考でもなんかは意識していたりする。いわゆるデカルトの「考える我」みたいな類のなんかである。これがおそらく「自分」ではないか?ひたすら周囲を観測し、檻の中で思考する意識。これがまさしく一番の核たる「自分」だ…

と前は思っていたのだが。・最近は考えを改めた。改めたというか、前から薄々思っていたことをそっちの方が自然と考えた。

恐らくこの「考える我っぽいやつ」も「自分」ではない。だいいち思考力や、意識の明確さの値が連続的に変わるとすれば、100%から0%までのどこかでこの我も消失するだろう。上記の論理では100%と1%を両方「自分」が存在する状態とする。ならば、0.1%は?0.00001%は?

連続的に変わるならば、100%と0%を明確に差別するのが、不自然なように思われるのだ。

恐らくこの我も、精神力の類も、肉体も、周囲の世界も、連続性の渦の中に存在する。ならば、この世界全てが自分という考え方すらできてしまう筈だ。

そもそも目にしたこと、聞いたこと、記憶、その他、全てによって「自分」が影響されるならば、独立した「自分」などどこにもない。全てが自分の一部であり、自分は全ての一部なのだ…

というような思考は、ぶっちゃけると最初の「考える我」的思想になるより前の時期に既に一度経験したものである。いわゆる梵我一如とか言われるような類だ。

正直、これもないな、と思う。全部同一に自分とか、あほかと。体とかならまだ自分なのか迷うが、見たことのないどっかの山や地球全体などが「これもお前だ」と言われたら流石に納得できない。論理で納得できようと直感で納得できない哲学というのは個人的に今一つだ。それを修行で納得できるようにするのだと言われるかもしれないが、直感が拒否するものに対して修行で直感の方を矯正するというのは、人間の営みとして不自然極まりないことのように感じるのだ。

「兎に角どこかに独立した『我』がある」的な思想と「どうせ全部おんなじ、自分は全てで全ては自分」的な思想はおおざっぱにそれぞれ西洋と東洋のものと把握しているが、どっちも極端だと思う。前者は空間上に一点だけ「自分と呼べる度」最高の点があるディラックのデルタ関数みたいなグラフで、後者は空間全ての点が「自分と呼べる度」均一である定数関数みたいなグラフ、ということだと思う。この両極端には間があってもいいんじゃないかと思うのだ。

すなわち空間上の色々な存在あるいは点が、それぞれ様々な「自分と呼べる度」の値を持つ。それは連続的に広がり、「ここが中心!」みたいな点もない。

それらをかき集めた結果、積分した結果が「自分」だと思うのだ。イメージはδ関数でも定数関数でもなく、正規分布の鐘状グラフ。高いところはあるが、そこだけ切り取ると周りに薄く広がる部分は拾えないし、かといって高いところと低いところは同じという訳でもないのだ。「自分と呼べる度」の値、という表現は不適切だったかもしれない。積分するのだから、自分の密度というのが正しいのだろう。全てがある意味自分の一部である、が、それは「とても自分である」部分と「あまり自分と関係ない」部分がある。しかし「間違いなくここが自分」とか「ここは一切無関係」みたいなのも存在しない。連続性の渦の中にあるが全て同じな訳でもない。これは論理としても直感としても納得しやすいのではなかろうか…

こんなところが今の自分が持っている自分観である。そこらの高校生が倫理の授業程度の知識のもと考えた話なので、真面目な哲学者の方に見られたら一笑に付されたり逆にものすごい長い論評を食らうなどする気はする。