布団の手触り
このところは旅行に行くどころか親戚の家にも行っていないから、まるで現実の世界における思い出というものがない。思い出というものがないと時が飛ぶように早く進む。あまり気分の良くないことだ。
旅先に行くときに特別に感じることとしては現地の風景、食べたものの味、そういったものもそうではあるのだが、ふと思い返すに、寝るときの布団の感触というものがある。
布団がなんだというかもしれない。しかし重要なのである。考えてみれば、旅行にでも行かなければ私たちはほぼ1年365日、同じ布団で寝て、同じ場所で目を覚まし、同じ電灯のぶら下がった同じ天井を見つめているのである。旅先の寝床というのはその果てない繰り返しに射した一筋の閃光なのである。普段と違う柔らかさの布団に毛布、ぎはぎはとした布の触り心地、仰向けになって見上げる天井の木目。それら全てがいつもと違い、起きる時までそこにある。これらが旅先の一日をいつもと違う一日たらしめている。
こういう感覚だけは家にこもっていても再現できなかろうと思っていたのだが、先日、上のようなことを考えて、物の試しに旅先にいる気持ちで布の感触を味わってやろうと思うと、これがなかなかどうして刺激的なのである。たかが気分の持ちようで思ったよりは感じるものが増え、自宅の布団が新鮮な感触に変わるのだった。
外の景色も意外とそんなものである。路面、建物の壁、電線のたわみ。見慣れた光景でも初めて見るつもりで、知らないつもりで情報を解釈すると、意外と違って見えるものらしい。「既に知っていることを知らないつもりで考える」という心持ちはどこか、数学の式導出をしているときや、小説の登場人物の台詞を考えるときの気分に似ている。
マインドフルネスにおける感覚への意識、あるいは西田幾多郎の言う純粋経験みたいなものは、今まで分かるような分からないような、そんな受け取り方だったのだが、この感覚がそういうものなのかもしれない。