非中央集権的な修正資本主義について
自分は経済学や社会学の知識はほとんどないので以下はほとんど素人考えの雑文なのだが、ちょっと思ったことがあったので書いてみる。
資本主義の良いところというのは、自由競争によって、各人各企業がより良くより安い製品を作ろうとするインセンティブがあるところだと大雑把に把握している。これの優れているのは、特定の誰かが音頭をとって改良を促すとか、特定の組織が「製品を改良したら報酬を上げるよ」と言っているのではないところである。どこにも中心となる存在を必要としないのにシステムそのものに改良と進歩へのインセンティブが埋め込まれている。
より良いモノを作ることが善であり、かつより良いモノほどより売れるという素朴な市場原理がちゃんと機能するという仮定の下では、資本主義はなかなかの善だと言えるだろう。
しかし一方現実には、このような素朴な資本主義を放っておくと色々と困ったことが起きる。カルテルや寡占などさまざまだが、大体は要するに富の格差ができ、かつそれが固定されるという話である。そうすると貧しい人がモノを買えなくなるだけでなく、自由競争が出来レースになり機能しなくなってしまい、より良くより安いものが作られなくなる。それでますます貧しい人がものを買えなくなっていくし、世に良いものも作られなくなる。
こういう状況をどうにかするために、政府主導で資本主義の仕組みに手を入れて、富の再分配などをした方がいいという主張が修正資本主義である。ここまで自分の雑な理解。
で、思ったのだが、素朴な資本主義が「自由競争」という仕組みによって非中央集権的に製品の改良をシステムに組み込んでいるのと同様に、富の再分配も非中央集権的な仕組みでシステムに組み込むことはできないのか?ということ。小さい政府あるいは無政府で修正資本主義を行うことはできないか。
各プレイヤーに自動発生するインセンティブとして組み込むからには、富を分け与えた人間に報酬が必要になるが、再分配という以上は富を持った側が富を減らすことは免れない。割と対立している。でもどうにか実現できないか。
今の修正資本主義は、修正資本主義といっても結局是正を行うのは政府という高々定数個の主体な訳である。資本家がここにお近づきになろうとしない訳がない。そしてどんな崇高な理念や倫理哲学を掲げたところで、それを完全に止めるのは出来ないに違いない。実際にそうすると利益があるんだから。だから、システム的に、まともに機能する政府の存在を仮定せずとも、各プレイヤーが最大利益を目指した結果十分な富の再配分がなされるような仕組みがあったらいいなあと思う訳である。
まあ仮に出来たとしても、その仕組みへ移行するインセンティブが現在の資本家の側にないと移行が起きないからそこもそこで考える必要があろうとは思うけど。
なんか経済学者とかアナキストが普通に考察してそうな話題ではある。