少し前までは、規則的な生活習慣を保つことが出来る人間はすごいと思っていた。なぜなら欲求のままにやりたいことをやったりすれば自然と夜更かししてしまうことは多いし、またそれを我慢してまで生活習慣を良くすることに意義を見出せないからだ。生活リズムを保てる人間は自分の行動を律するべきだという強い信念と、それを実際に実行する優れた自制能力のもとに成り立っているものだと思い込んでいた。

ところが最近になって経験的に分かったのは、体力が落ちた状態でひどい生活習慣になると本当に身体も精神も調子が崩れて何もできなくなること、それから欲求を感じる能力というものすら衰えうるものであるということだ。つまり、自分の行動を律するべきだという強い信念は信念というよりどうしようもない経験的事実として体得されるものであり、また欲求のままの行動と望ましい行動を並べたときに後者を選べるのは自制力があるからではなく、前者の根拠たる欲求が衰えてしまう上に後者を選ばなかった場合のデメリットが「健康に動けなくなる」というあんまりにもあんまりな形で出てくるからなのである。夢も希望もない。

目の前にある現実的な身体の問題はひとまず置いておくとして、理想的な身体は2,3徹くらいしたところでちょっと長めに半日くらい寝れば全快する"べき"ではないだろうか。そうは思わないか?俺はそう思う。

また話は変わるが、先日世間を賑わせている件の感染症の疑いで2週間ほど自宅に隔離になった。幸い何ともなかったようだったが、10日以上家を一歩も出ず家族とも最低限しか接しないというのはかなり珍しい体験になった。そこで感じたのは、人類(現行バージョン)の身体および精神は日を浴びないとリズムは簡単に崩れるし、他人と触れていないと自分が何だか分からなくなるし、散歩程度の運動でもしていないとどんどん頭が鈍っていくということだ。

自分は引きこもり賛成派なので、外に出て陽光を浴び人に触れて見聞を広めることを良しとする古典的な価値観にはNOを突き付けていきたいのだが、善し悪しの価値判断以前に「ある程度はそうしないと身体の状態は悪くなる」という事実がどうしようもなく立ちはだかる。ここを「ゆえに引きこもることは良くないことである」ではなく「引きこもることは良い"べき"なのだから、外に出なくても健康は損なわれることがない"べき"である」と主張したいのだが、人類の科学力ないし肉体の進化がそこに追いついていない。全く嘆かわしい。

我々はいつまで、いつまで好天の陽光に気持ちを晴らされ曇りの空に気分を下げられなければならない?いつまで運動を不足して身体の衰弱に悩まされ運動をしすぎて身体の故障に苛まれなければならない?いつまで心の健康を身近な人間の多寡や質に振り回されねばならない?いつまでたった十数時間椅子に座っただけで血栓の心配をしなければならない?いつまでたった数十年歳を重ねた程度で感情が枯れたり新しいものを理解しにくくなったりしなければならない?もううんざりだ。