(2021/3/20の日報より抜粋)

最近いよいよもってTwitterとブログの使い分けが分からなくなっている。この日報を始めたのはTwitterから離れて自サイトに引きこもりたいのが最初の動機だったけど、別に最近大してTwitterで自重してないし。

長文が書けない代わりに衆目に止まりやすいのがTwitterの短所と長所なので、ぱっと宣伝したいようなことがあれば間違いなくTwitterに投げるのだが、特にそういうのはない。ふわっと思いついて日報で書くほどでもないなor誰かにちらっとでも聞いてもらいたいなという話をTwitterに投げている。

Twitterの本来想定された使い方というのはその場その場のふとした思いをぶん投げる(=つぶやく)ことだと思うのだが、言葉が人の目に留まりやすくいつまでも残る環境はどう考えてもそれと合致していないし、残った長所は短文への特化性だが自分は長文の方が性に合っている。というか文章の論理性と解釈一意性を一定の水準で担保しようとしたらどうあがいても長文になるのであって、誤解されることが嫌いな自分にはお気持ち表明の道具としてのTwitterは一切合っていない。

フリートとかいう機能を作っている時点で、公式もつぶやきがつぶやきどころのものではなくなっていると分かっているのは間違いないが、どこに向かっているのだろうか。

公式が何を想定しているかはどうでもいいとして、自分の行動の指針が存在しないのは大分やばい。他人との関わりが少ないから「こいつってこんなやつだよな」という他人からの規定も存在しない。自由の刑だ!まあそういうのがあっても破壊してしまうような気もするけど。

真面目にアカウント運用方針などを決めている人や、特に考えてもいないけど結果として一人の個人としての緩やかな一貫性を形成できている人はすごいなと思う。自分はそのどちらにも当てはまっていない。

他人からこういう風に見られたいという明確なビジョンがあれば良いと思うのだが、あまりない。無いというと語弊がある。あるにはあるけど複数あって、1つの明確な状態に括りつけられたくない願望があるから、自らどれかになるのを拒否している節がある。何者かにはなりたくないし、何者でもなくなりたいと同時に何者でもありたい。多重人格者や多重アカウント者になりたい訳でもない。矛盾だ。

書き下したら多少気が楽になった。良かったですね。