価値観・感覚のアップデートと青春
誰かが言っていた。人の好みの感覚は、10代あるいは20歳くらいまでに聴きまくった音楽や読みまくった本などで大体決まってしまうらしい。自分は今そのくらいの歳なので、その理論に従えばおおよそ過渡期にあたるのだと思う。
自分を形成したものは、インターネットなどではよく「青春」という形で形容されるように思う。例えばハルヒは青春だとか、ニコニコでMADを漁っていたのが俺の青春だとか。限りある青春が人を形作り、人はそれに一生囚われるのだという意識が見え隠れしている。なんとも偏屈な世界観だ。
自分は2年くらい前から読書に傾倒している。それまでは小説や思想書よりも、漫画やゲーム、コンピュータ技術、数学や物理科学、そういうのを主に趣味にしていた。その地盤からやや離れて、文系知をちょっとかじってみようとなった訳だ。今に至って、まだおぼろげだが、新しい地盤を掴んだような心持でいる。
このような獲得体験は年を取ると出来なくなるものなのだろうか。獲得体験というと少し違うかもしれない。価値観のアップデートとかではなく、価値観の軸足を動かすような体験。これも微妙に違うかもしれない。こう言おう。価値観の軸足を置ける場所を新たに増やす営為は、本当に年をとると出来なくなるのだろうか。
小学2年の頃、本当に心の底からハマったゲームがあった。自分は今後一生これだけを信じて生きていくのだと本気で思った。
中学1年の頃、数学の教科書に書いてあった方程式で数学の世界に飛び込んだ。死ぬまでこれだけをやっていても飽きないだろうと思った。
高校2年の頃、あるアニメに心を奪われた。それはこの世の真実であり、今後も覆ることはないだろうと思った。
そしてそのどれも、最後ではなかった。後に同じくらいに信じたいものが目の前に立ち現れた。最終的で完璧で絶対的な救いなどではなかった。お話が終わればめでたしめでたし、その地でずっと幸せに暮らしました、などというのはありえないのだ。それでいいし、それだからこそ生きる張りがあるものだと思う。もしも今後そんな体験が無いのだとしたら、それは絶望としか言いようがない。
皆が未踏の大地に踏み出している最中に、自分は知っている場所で延々突っ立っている。それはどんなに心細いことだろう。自分は、今まで歩いてきた場所のどれもを自在に移動できながら、同時に新しい場所へも踏み出していたい。
欲張りだろうか?でも自分はミーハーでも老害でも居たくないのだ。
10年後、20年後の自分がどうなっているかは良く分からない。でも出来得る限り色々な世界観を内に保っていたいものだと思う。