自分には「これ/こいつだけは絶対に許してはならない」と確信している人・物体・概念が、少ないながら数個ある。嫌いなものに意識を割くのは無駄なので普段はあまりそれらについて考えることはないが、間違いなく無意識にまで根を張っている。自分はこれらをどうにかしたいと思っている。

なぜ自分はそれらを許さないのか?そう考える原点になったエピソード自体はそれぞれについてちゃんとあるし、語ることもできる。しかし自分の「許さん」という確信めいた衝動はどうやら論理以前に存在し、それは言語化することができない。

つまり自分はこれらの許されざる存在群を、それがそれであるからゆえに許さないのではなく、何かこの自分自身に沈底した澱のようなものに起因してそのような確信を持っているのではないかという気がしている。つまりその澱の方を究めない限り、個々の「それ」を処罰あるいは消滅せしめても意義は薄いと考えられる。「それ」には実際道徳的に間違っている要素があるし、客観的にも倫理的に悪であるのは間違いないのだが、それとこの澱とは関係が無い。

適切な自己肯定感があるのならば身の回りのものや過去の身のことについて、自己の延長線上的あるいは仏教の縁起的な考え方においておおざっぱに肯定できるはずである。つまりこの憎悪は自己嫌悪や自己否定、罪悪感の投影である可能性が高い。

そこから演繹すると、問題の解決には自己肯定感を高める、というよりは自己嫌悪の原因を取り除く何らかの処置が有用である可能性がある。ここで問題になるのがその原因がどのようなものかだ。

何か決定的なエピソードが存在し、その記憶が抑圧されているだけなのか。もしくは日頃の細かなエピソードや精神的な何らかの不足の集積なのか。心理学に明るい訳ではないが、たぶん前者ならトラウマに対する処置っぽいことをして、後者なら人間関係や認知、生活などの改善をするべきなのではないかと思う。

しかし、仮に実際は前者なのに後者の対応をすると穴の開いた桶に水を入れるような始末になり、実際は後者なのに前者の対応をすると存在しないトラウマを探し続けるようなことになるのではないかという危惧がある。こういうのは本職がやれば容易に見分けが付くのだろうか。