創作上のキャラクターというものは死ぬのか、ということについて考えてみた。

キャラクターが死ぬとはどういうことか。自分が考えるに、キャラクターの死には主に以下の3種類がある。

  1. 完全に忘れ去られること。ミームとしての死、というより消失。
  2. 「このキャラクターは死んだ」という認識が発生し固定されること。
  3. 完全に修復不可能なほどにミームとして変質し、擬人的に振る舞う認識上の存在として立ち行かなくなること。疑似人格存在としての死。

初めに断っておきたい重要な点がある。それはキャラクターは現実の肉体をもたない認識上の存在、ミームであるということである。認識上の存在ということは主観的存在と言うことである。

これからキャラクターの死について考えていきたいのだが、そこではあるキャラクターがある人にとっては死んでいてある人にとっては生きているということは当然自然にあり得るのである。つまりこれ以降の議論は主観的な世界における話の部分が多いということは心に留めておきたい。ただし多くの人が同じ認識を共有していれば、それは客観的と言えないまでも間主観的事実たりうるということは言えるだろう。

最初に示した3種類の死に戻る。1はとても明快だ。誰かにそのキャラクターの名前や顔を見せても何の反応も示さなければ、その人の中でそのキャラクターは死んでいる。また全人類に対してそうならば、そのキャラクターは完全に死んでいる。分かりやすい基準だろう。

2は少々難しい。仮にAというキャラクターがいて、Aが死亡する物語が強固な(創作世界上の)事実として大勢の人に受け入れられたら、そのときAは死んだと言えるだろうか。

その創作世界上で死んだとは言えるだろう。しかしその作品のファンがAを二次創作世界上で生かし続けるなどということはありそうなことだ。この場合あらゆる意味でそのキャラクターが死んだと言い切るのは難しいかもしれない。キャラクターが忘れられる以外によって死ぬのはとても難易度が高いことだと思われる。

創作キャラクターに限らず現実の人間も似たところがある。肉体的に生物として死んだとしても「あの人は私の胸の中で生きているのよ」などと言われる。悪人ですら、記憶に残ってさえいればモヤモヤが残ったりする。「責任取らずにポックリ逝っちまいやがって」などと吐き捨てたとすれば、つまりそれは責任をとれる存在が「あの世」かどこかに人格的存在として生きながらえていることを暗に認めているといえるかもしれない。

現実の人間が肉体的に死んだとて認識上の人格的存在として生き続けているというのはとてもよくあることで、そして創作キャラクターは認識上の人格的存在の方が本体なのである。これを仮に完全に殺そうとしたら、十分な説得力を持った「キャラクターの死」の物語に加えて、現実の他者の死を受容するプロセスのような長い時間が必要になるかもしれない。

3はちょっと特殊だ。ミームとして全く異質なものになってしまえば、それはある種の死と呼べるのではないかという寸法だ。

ここでちょっと注意しておきたいのが、キャラクターのミームの多少の変質というものは特にインターネットが発達した今、とても頻繁に一般的に起きているということである。キャラクターに対して新たな属性が加わったり本来あった属性が忘れ去られたりする。しかしそうした変質が起きたところで、元のキャラクターが「死んだ」とまで認識する者は恐らくそうはいない。単なるキャラクター像の変遷に過ぎないか、もしくはキャラ設定の枝分かれとして捉えられるのがせいぜいだろう。

この方法でキャラクターが死ぬには二つの壁がある。それは「枝分かれ」として捉えられないよう同一性を保ちつつ変質が起きる必要があること。そしてもう一つが、擬人的存在として振る舞うようなことがなくなるまで徹底的に変質する必要があるということだ。分かるように、この両者は矛盾する。準静的過程か何かみたくジリジリとずらすとしてもとんでもない時間がかかりそうだ。

恐らくキャラクターの死というものは、紙や電子ファイルのような記録媒体というものが無ければもっと簡単に起きるかもしれない。口伝でしか伝えようがなければみんな黙るだけで長期的・間主観的には途絶える(1のタイプで死ぬ)。また2や3のタイプにしても、かつての状態を参照しようがなければもっと簡単に変質するだろう。記録がある状態でキャラクターというものが真に死ぬには、現状のミームに対する変質を促す物語だけでなく、過去の記録を見ても動く死体として認識されることになるような、認識方法自体の変質が必要になるかもしれない。