私たちの身の回りにはタブーと呼ぶべきものが数多くある。

その中には実用的意味を持つものもあるが、ともすれば全く意味のない、不利益なだけのただの縛りのようなものも少なくない。

そうした縛りのようなタブーは全て消し去ってしまうべきなのだろうか。それは恐らく出来ない。「消すべきではない」ではなく「出来ない」に近い。

タブーは社会の仕組みや認識の在り方を決定づける。中身が何にせよ必要なもので、要石とか、見当のようなものである。材と材との間には杭が必要で、事物と事物との間には輪郭が必要だ。それが無ければ全ては「訳が分からなく」なってしまうのである。そのためそれはもはや無意識的に、反射的にすら避けられる。

「タガ」という言葉がある。元は樽や桶にはめて形を保つための輪っかのことだ。それが転じて今では何らかの規律を指す言葉になっている。「タガの外れた」状態ではまともな生活をすることはままならない。何かしらのタガがあるからこそ正常に日々を送ることができるのだ。人間は時に「タガを外す」ことがある。「羽目を外す」と言った方が伝わりが良いかもしれない。そうしたことも時には必要で、たまにそういう要素が挟まることによってリフレッシュできる、活力が得られるという面もある。しかし常なる日常においてはタガが必要で、それがあるからこそ秩序が保たれている。タブーとタガは表裏一体の関係にあると言える。

しかし時には、今あるタブーを解放しなければいけないこともある。一時的にでなく永久にだ。そういう場合は新たな構造が必要とされている。しかし考案のために必要な思考の仕組みは既存の構造に依っているのだから、それは容易なことではない。

そしてそんなことよりもっと重要なことは、その打ち破るべき「タブー」は「タガ」でもあるかもしれないということだ。

タガの外れた人間は何をするか分からない。他人には勿論、自分でもだ。当然そんなものは危険極まりない。つまりタブー解除は時間と空間を限定して行うか、あるいは恒久的なタブー解除を行うのならば新たなタガをはめる必要がある。移行は危険でリスクが高い。

それでも行わなければならないのならば、移行後を見通した入念な新しい価値体系の準備と、失敗に対する相応の覚悟が必要かもしれない。

また、失敗したとき、どう立ち直り再構築していくかという点も検討事項と言えるだろう。