自分は(主にオタクの言う)愛とは何かをちょいちょい考える。きっかけは単純で、SNSなどではこの作品には愛がある、ないといった言論がどこでも見受けられておきながら、その根拠には愛を感じる感じないといった直覚的な感想しかないからだ。

世の中には色々な愛の形があるのだから、むやみやたらと厳格に決めつけるべきではない(決められるものでもない)という考え方もある。自分はそれに半分は同意するが、半分は同意しない。

半分同意する理由としては、愛だ何だはそもそもあまり言葉で語ってはいけないものかもしれないからだ。言語以前の何かとして存在するならばそれは言葉で語った瞬間別物になってしまう訳で、愛というものが大事にするべきものであるならば言葉で語るべきではないことになる。

半分同意しない理由としては、やはりみんな愛について語っている、語ってしまっている以上そこには「愛とはこうだ」という(それが多少曖昧なものであれ)何らかの合意が存在するとしか思えないからだ。合意が存在する以上、その合意の内容について研究することは可能な筈である。

もう一つ同意しない理由に、何でもかんでも愛だと言い張ることが可能な世界はやはり認めることが出来ないという点がある。愛が大事なものだという仮定の下では、どんな非道な行いも愛であるならば何らかの形である程度の尊重がされるべきということになりかねない。その非道な行いに抗う方もまた愛なのだという考え方はできるが、そうすれば何もかもが愛ゆえにと言えることになり、今度は愛という言葉が存在する意味がなくなってしまう。そういう馬鹿馬鹿しい世界観を探求してもまるで仕方がない。


自分の問題意識として、二次創作は愛と言えるのかというものがある。

自分の感覚として、愛は純粋な「愛する側が愛される側に向ける」感情であろうというものがある。AがBに向ける感情の中には、AからBへの愛であるものもあればそうでないものもあるだろうが、AがCに向ける感情はそのどの要素をとってもAからBへの愛ではあり得ないと考える。

さて、二次創作は愛だろうか。そもそも二次創作はどういうモチベーションで行われるかというと、原作に対するある種の感情の表出であったり、魅力を伝える目的であったりだと思うのだが、ある種の二次創作は承認欲求を満たすためでもある。そして重要なのは、前二者と後者は明確な区別が出来ない。

承認欲求を満たすためであれば、それは原作への感情ではなく視聴者閲覧者への感情なように自分には思われる。だとすればそれを愛と呼ぶことは出来ない。しかし問題なのが先ほども言ったようにそれらの区別ができないということだ。それは二次創作作品を見る側だけでなく、場合によっては作る側にとってすらそうでありえる。つまり神の視点の導入による「真に愛がある」「真に愛がある訳では無い」の仮定すらできないかもしれないということだ。

この問題点に一定の解決を与える考え方について、最近たどり着いたので説明する。


最近Twitterで少し面白い意見を読んだ。曰く、昔のオタクは作品に対する知識自慢などで愛の深さを競い合っていたが、現代ではインターネットで作品知識など容易に手に入るようになった結果、今のオタクは推しにつぎこんだ金額などで愛の深さを競っていると。

要は愛の形が変化している、愛の形が複数あるということだが、自分が思うに重要なのはそこではなく、愛の定義が作品でもその人自身でもなく周囲の人間に依存しているという点である。

ここから類推するに、このような行いが愛である、という認識自体は文化によって変化していて、それがたっといものであるという認識だけが共有され続けているという風には言えないだろうか。人は好意を持つ対象に対して様々な感情を向けるが、それが愛であるという承認は他者によってでないと行えない。そして彼らは、自分の持っているその抑えきれない感情が愛と呼ばれるものであるという承認を求めている。

人間同士であれば感情の対象自身がその感情を愛であると承認してくれる。しかし、事物に対するオタクはどれだけそれに感情を向けてもそれ自身は彼ら1人1人自身の感情を愛であると承認してくれることはない。

当たり前の話だが、知識自慢にしても金額自慢にしても二次創作にしても、それ単体ではそれを愛であると定義する者(及び愛でないと定義する者)はいない。誰かに愛であると承認あるいは定義されることで初めて愛であったということになる。

作品の二次創作を公開・頒布したりする営為もこのモデルによって説明できる。その作品に愛があるかどうかという話ではなく、誰にも見られていなければ「愛である」も「愛でない」もそもそも「存在しない」のではないか。公開し文化の構造の中に置くことで初めて愛の概念が付与されるのだ。

あるいはこう考えることも出来るかもしれない。事物に対するオタクは、愛情の対象それ自身が泣きも笑いもしないために、対象それ自体ではなくファン集団の意識や無意識の上に共有されて存在するそれの「イメージ」に対して愛を示している。それによって仮象的にそれ自身から承認を受けている。

結論としては、愛の定義は文化依存のものであり、時流に流されない定義というものは無い。ただし文化ごとに「これが愛だ」というぼんやりとした合意は存在し、そして何らかの意味で愛は素晴らしいもの、価値あるもの(ときに恐ろしくもあるかもしれないが)ということが共有されている。そして意識を持たない事物に対する愛情の存在を認知・承認されるために、オタクは他者ないしは「界隈」を利用しまたかつ利用される。これが自分の考える構造である。

ここで一点補足しておくと、確固たる愛の定義が自己の中にあるならば自己承認が可能であり、その場合少なくともその人自身にとっては間違いなく愛であるということができる。しかし、そのようなタイプのオタクはどれほどいるのだろう。正直言って、予想もつかない。滅茶苦茶にマイノリティだという気もするし、案外それなりにいるのではないかという気もする。


最後にここまで議論してきて疑問を呈したいのだが、果たして愛を持っていること自体に、実際どれほどの価値があるだろうか。

価値はそれこそ価値観という言葉通り、個人の主観ごとに異なっているし異なっていることがそれなりに認知されたものである。愛には価値があるということはそれなりに共有された価値観だが、上の議論で確認した通り、愛とはある種の何でも中身を決められる箱であり、ただのプレースホルダとしての役割が大きい。

これは自分の価値観であることをことわっておく。あるものに対して、愛があることは良いことかもしれないが、愛が無ければいけないということは決して無い。なぜならば価値は別の場所にあると考えるからだ。「それ」に触れた個々人が救われること、何らかの形において精神的に満たされること、そこに真の価値がある。

それはとても個人的なものだ。救いは完全に個人ごとの価値であり、意味であり、お話である。ゆえに共有され誰かに承認を受ける必要性が無く、本人の内において完全な価値として存在する。真に価値があるのはこちらの方であり、愛がある、無いといったことにあまり大きな意味はないというのが自分の考えだ。

しかし、完全な個人の価値である救いは、逆に言えば共有が不可能でもある。もともと、別の人間が全く同じものを、同じ世界を見ることは土台不可能だ。しかしそれでも人は共有することを欲する。救いとて同じなのではないか。

共有を欲する?既に「それ」によって救われた、心は充足されたというのにそれ以上何を求めるのか?しかし完全で徹底的で最終的な救いなど存在しはしないし、また個人として救われたとてそれは他人との連関の中に配置される人間として救われたことを意味しもしない。ゆえに人は見える形、共有できる形で「それ」の素晴らしさを体現し、世界を讃える必要をどうしようもなく感じてしまう。それがオタクの示す愛の正体ではないだろうか。