(半年くらい前に書きかけたけど途中で投げた文章。勿体ないので蔵出し)

始めに断っておくと、自分はMAD文化史についてそこまで詳しい訳ではないし、音楽的な知識も一般人と同じ程度である。あくまで平凡な一愛好家から見ての「MAD文化ってこういうものだよね」という言語化の試みであることをご留意頂きたい。

MADとは何か

MAD文化について語るならまずMADとは何かを明らかにしないといけないが、MADと名の付く動画を沢山見ていると分かることとして、その定義は判然とせず、視聴者や投稿者の間でも意見が割れることは多い。これこれこういう要素を持っていればMADであり、持っていなければMADではないという明確な定義は難しく思える。

言語学には「プロトタイプ理論」という理論がある。これは何かというと、言葉の定義というものは「~~と言えばこんな感じ」という大雑把なイメージ(=プロトタイプ)の連なりによって出来ているとする考えだ。例えば鳥というとどのようなイメージが思い浮かぶだろうか。

多くの人の場合「空を飛ぶ」「クチバシがある」「羽根がある」「小動物」といったイメージが思い浮かぶのではないだろうか。こうしたイメージに照らし合わせるとハトやスズメは明らかに「鳥っぽい」のに対し、ペンギンやダチョウは鳥ではあるがあまり鳥っぽくない。言葉の指すものはある厳密な条件によって区分けされるのではなく、典型的なイメージとの類似性によってふんわりなされるというのがプロトタイプ理論の主張だ。このとき浮かぶ「~~ってこういうものだよね」という典型的なイメージをプロトタイプと呼ぶ。

「MAD」の指す範囲もやはり明快に決めることは難しく、何がしかの厳密なMADの条件について考えるよりもプロトタイプ理論で捉えるのが良さそうに思える。「この場ではこういうものをMADと定義します」というやり方で語ることは出来るが、「MAD文化」について語ろうとしている以上やはりMADと名の付くものを追いかける必要があるので、そういうやり方は適当ではなさそうだ。

そうすると今度は「MAD」という言葉のプロトタイプがどんなものかを明らかにしなければならない。ここで注意が必要なのは、ある言葉のプロトタイプというものは文化圏ごとあるいは個人ごとに異なるということである。例えば日本人が思い浮かべる「カレー」のイメージとインド人の思い浮かべる「カレー」のイメージには月とすっぽんの差があるだろう。MADも同じことである。そこで、なるべく多くの人に受け入れられていそうなプロトタイプ、あるいは各文化圏において多くの人に受け入れられていそうなプロトタイプがどんなものかを調べることにする。そうして調べたプロトタイプを通じて、MADの何が面白いと思われているのか、ひいてはMAD文化とはどのようなものかを調べていくことにする。

「ちぐはぐなもの」としてのMAD

MADのイメージを特徴づけるものとして「切り貼り」があるように思う。

「謎の感動」「違和感が逃げた」などのタグ文化が見られる。このことから逆説的に、MADには一般に「感動的ではないこと」「違和感があること」が予期されていることが分かる。

投稿者の側としては違和感の徹底的な除去を目指す人は多いし、ストーリー性についても本気で取り組む人もいるようなので、ここでは視聴者と投稿者の文化に一定の隔たりがあると言っても良いかもしれない。

「組み合わせられたもの」としてのMAD

(書き途中)

言葉をいかに上手く音楽に乗せるかが主眼となる、ラップなどとの相性が良いのは必然だったのかもしれない。

なぜMADは笑えるのか

手書きMADを除く多くの種類のMAD、特に音MADの類には必ず「笑える」ものであるというイメージが付きまとう。これはよくよく考えてみると不思議なことだ。

様々な音楽を聴いていれば、それによって楽しくなることもあるし悲しくなることもあるかもしれない。それにも関わらず多くの音楽ジャンルを取り込んで発展しているMAD群の多くが「笑えるもの」というイメージを共有している。これは冷静に考えてみるととても不思議な現象に思われる。

ベルクソンの「笑い」という著書を紹介したい。これは様々なおかしさによって引き起こされる笑い一般について分析した著作だ。今日存在している笑いの全てがベルクソンの理論で説明できるのかは自分には判断しかねるが、少なくともMADのおかしさ、面白さの分析については一定の威力を発揮するように思われる。

光文社古典新訳文庫:https://www.kotensinyaku.jp/books/book232/
岩波文庫:https://www.iwanami.co.jp/book/b246814.html

ベルクソンはまず笑いの発生に必要な条件を3つ挙げている。

1つ目に、笑われる対象が「人間的である」ということ。ベルクソンは人間的でないものにはおかしみがないとする。ここで少し注意が必要なのは、「人間でなければおかしみがない」と言っているわけではないということだ。物や動物でもおかしみは生まれる。ただし、何かしらの「人間っぽさ」がなければそこに笑いは生まれないのだとする。

2つ目は「感情が伴わない」ということ。これは少し納得しにくいかもしれないが、例えば笑われる対象に対して、憐れみであったり共感や愛情などの感情を催したならば笑うことはできない。逆に普段感情を催すものだとしても、そのときだけ感情移入することをやめれば途端に笑いに変わる。チャップリンの名言「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇である」もこれと近いのものとして捉えることが出来るだろう。

3つ目は「社会的である」ということ。笑う側が集団的、社会的であることが笑いには必要であるとする。私たちは何が笑えるのか考えるとき、「笑われる側」の特性に注目しがちだが、笑いは「笑う側」たる社会とは切り離せない関係なのだ。それほど面白くない映像でも、そこに誰かの笑い声が入るだけで笑えてくるということは誰しも身に覚えがあるだろう。

順に検討していこう。まず「人間的であること」だが、これはアニメや芸能人、Vtuber、その他有名人などのMADについては間違いなく満たしている。しかしエラー音MADを初めとする非人間的な効果音MADの類を説明できないように思われる。これについては「メッセージを伝えるもの」としての効果音の人間性が笑いの対象になっている、もしくは素材ではなく原曲の方が笑いの対象となっているという見方が出来るだろう。また、そもそも効果音MADについては「すげえ」といったコメントが多く、そもそも他のMADほど「笑いの対象」としての受容がなされていないのかもしれない。

次に「感情が伴わないこと」だが、これは上で説明したようにMADは素材の組み合わせに起因する「ちぐはぐさ」を1つのアイデンティティとして持っている。ちぐはぐゆえに「感動的でない」ことが典型的なMADの特徴であり、これはまさしく当てはまる特徴だろう。

そして3つ目の「社会性」である。これが自分には、コメントが流れるニコニコ動画がMAD文化の舞台として活躍した大きな理由に思えてならない。いわゆる「弾幕」はコメントする側の連帯感を刺激する。例え画面の前では1人で見ていても、流れるコメントによって「笑う側」の集団性が保証される。最近では弾幕は寒いと斜に構える御仁も多いが、「草」というコメントが流れるにしても視聴側の集団性の保証という機能については変わりがないように思われるのだ。

ベルクソンは次に「おかしさ」を説明する柱の一つとして「硬直性」について何度も言及する。「惰性の力」や「自動作用」「機械性」など言葉を変えて語られるが同じ中身である。本書の1章2節を引用してみる。

一人の男がいて、通りを走っていたら、つまずいて転んだ。それを見て通りがかった人たちが笑う。…(中略)…わたしたちを笑わせるのは、男の姿勢がいきなり変化したことではなく、その変化にみられる不本意さ、不器用さである。石が路上にあったのかもしれない。それなら歩き方を変えるか、その障害物を避けて通るかすればよかったのだ。にもかかわらず、しなやかさに欠けていたせいか、他のことに気をとられていたせいか、身体が思うように動かなかったせいか、硬直や惰性の力によるのか、いずれにせよ外的事情としては他の事が要求されていたのに、筋肉は同じ運動を最後までし続けてしまった。そういうわけでこの男は転んだのであり、そのことを通りがかった人たちは笑うのである。

「笑い」(光文社古典新訳文庫・増田靖彦訳)

本書ではこの「硬直性」をおおまかな出発点に、喜劇における笑い、物真似に対する笑い、身体的特徴に対する笑いなどを様々に分析している。

MADを特徴づけるものの1つは「素材の切り貼り」であることは上に述べたとおりだが、MAD動画の中で「切り貼り」され「繰り返し」再生される人間などの動画素材は、まさしく硬直性、機械性の塊と言ってよい。本来ならば、記録メディアというものが存在しなければ、その場において一回限り見られたら後は忘れられるだけのはずの他人の面白シーンが、全く精確にそのままに何度も再生される。素材となった人間が後から何をやったところで、素材となって固定されたシーンを一塵たりとも変化させることはできない。この硬直性におかしさがあると言うことが出来るだろう。

(書き途中)

MAD制作者こそが操り人形師、あるいは物真似芸人である。

(書き途中)

ここまでをまとめよう。記録メディアが誰かの面白シーンを記録(=素材化)し、機械性・硬直性を与え、MAD制作者が音楽などに乗せて繰り返し流す(=模倣・再現する)ことによってそれを強化する。そして「笑う側集団」たるMAD視聴者がそれを見て笑い、コメントを読む、書きこむことによって集団性を再認識する。この三者構造が古典的な「笑えるMAD」の構造と言うことが出来るだろう。

以下の一文はまさにこれを見事な形で表現しているといえる。100年前にこの事実に辿り着いていたベルクソンの慧眼には感服するしかない。

ある人が事物であるような印象を与えられるたびに私たちは笑う。

アンリ・ベルクソン

「一生ネットの喋る笛」が優れた笑いの対象になるのは当然の理だったのだ。

キャラ二次創作としてのMAD

近年のMAD作品には上記に説明した笑いというよりも、むしろキャラ二次創作としての性格が強いものが多いように思われる。VtuberのMADの類もそうだが、例えばクッキー☆や淫夢(いわゆる例のアレ界隈)にしても、素材を通した現実の人間に対して笑いを見出すというより張り付いたイメージ群そのもの、現実の人間を遊離したキャラ属性群そのものを楽しんでいるように思われるのだ。

キャラ二次創作的な要素とおかしみによる笑い要素は一見完全に分けることは難しいように思えるが、ベルクソンの提示した「笑いは感情を伴わないものである」という主張、そしてキャラとは「人間的な存在感を示すもの」であるという点を見れば自ずと1つの指標が見えてくる。それは「感情移入ができるか」という点だ。

あるいは視聴者と素材側の人間の間にコミュニケーションがあるかという点でも見れる。双方向的なコミュニケーションがとれるのならばそれは「人間的」、つまり「事物のよう」ではないということであり、先述のような形でのおかしみは減るということが出来るだろう。

これは「公認されると面白くなくなる」という言説をある程度説明できるかもしれない。そういった主張をする側は、主に事物化された人間に対するおかしみにMADのアイデンティティと面白味を見出していると考えられる。

さて、古典的なMADにもキャラ創作的な性格は十分にあった。ムネオハウスもそうだし、修造MADなどもいい例だ。むしろ「キャラ創作」と「人間に対する笑い」の混合性が古典的な音MADを特徴づけていたと言えるかも知れない。

投稿者側文化としては人力ボーカロイド然り、かなり早期から「キャラ創作」が前景化したMAD文化があったのではないかと思うが、視聴者側文化はそれとはやや食い違っていたように感じる。自分の推論としては、視聴者側の文化としてはそもそも前述の2要素があまり区別されないでいた結果、「MADに対するレスポンス」=「笑う」という形で集約、固定されていたのではないかと思うのだ。

古い技巧的なMAD動画のコメントにおいては「すげぇwwww」といったコメントも多い。感嘆するなら感嘆だけすればいいのに草も生やすという点は、今の文化から見てどのように感じられるだろうか。

前述のような状況を変えた1つの契機として、つまり視聴者側文化におけるキャラ創作的なMADの受容に関して、2018年ごろのVtuberブームを考慮に入れてもいいかもしれないが、自分は2017年の「ジャガーマン」に注目したい。これまで「笑う」「草を生やす」というレスポンス方法しか知らなかった視聴者の文化に新たな言葉を与えたのが、ジャガーマンの掲げた「ここすき」だったという考え方は出来ないだろうか。(観測範囲を広げた感じもっと前からあった感じなので結論を保留)

BB劇場の類(パープル兄貴などの定義ではMADに相当)においては

(書き途中)

純粋なアートに近いMAD、およびそれらがMADである意義

MADの中には稀に「人間に対する笑い」も「キャラ創作的な要素」も少ないにもかかわらず高い評価を受けているものがある。最も有名な例は2号兄貴の「柴又」だろう。もっとも「柴又」も現代においては様々なキャラ性の高い素材によるMADが作られた他、そもそも2号兄貴自体がシンボル化されている面もあるが、それでもオリジナルの輝きは色あせない。

(書き途中)

MADを取り巻く人々の構え方について

MADについて語る記事では、「面白いMAD」という果てしなく抽象的な語彙がかなり頻繁に見受けられる。正に示し合わせたようにである。

自分が思うにそこにあるのは、言語化能力の拙さなどではない。むしろ詳しく言語化することを忌んでいる、冷たい眼で研究されることを嫌っているような文化である。

先日こういう動画を見た。有名な「ムネオハウス」ムーブメントがその作品と共にTVで報道されたときの内容で、モーリー・ロバートソン氏がそれに言及してコメントしているのだが、その内容が以下のようなものである。

著作権や肖像権を侵害してやろうという中傷・誹謗の意図は背景に薄らいでいますね。

どちらかというと風刺中心。

で、これを日本の社会、日本のマスコミ、あるいは日本の代議士がね、この笑いに耐えられるか、そういうチャレンジをしているような気がしますね。

そしてそこについているニコニコユーザーのコメントが以下のようなものだ。

そんな深い事考えてないんじゃないかな

は?????????

そうなの?

音MADって風刺だったんだ…

風刺?

そうだったのか

さすがモーリー

作者の人そこまで(ry

つまり少なくとも現代のMAD文化において、「風刺」という分析は不適当である(少なくとも文化の当事者たちはそのように感じている)ことが分かる。

ムネオハウスのライブイベント関係者が以下のように述べていてコメント欄で同意されていることから、当時の文化もそこまで変わらなかったと思われる。

政治的な意図というのは全く無かったですね。

ただその、鈴木宗男さんのキャラクターが非常に面白かったということですね。

自分の結論を述べると、MAD文化は「悪ふざけの文化」である。何を今さらと思うかもしれないが、ここが重要なのだ。MAD文化はいかなる高度な風刺や社会批判の意味も持ち合わせない。ゆえにMADは誰にでも楽しまれる。

どこまでも単純に「面白い」「音が気持ちいい」「聴いてて楽しい」、そういった純粋で、悪く言えば浅はかで、プリミティブな理由によってのみ駆動される。彼らはそのように自己定義し、自らをそうであるように律してすらいる。そこにこそMAD文化の精神性があるように思う。いわば観念的な世界における「悪ガキどもの秘密基地」のようなものであって、そこにややこしい大人の社会を持ち込む、社会に持っていくのは「つまんねーやつ」なのだ。

この作品は社会風刺であるとか、誰それへ向けられたメッセージであるとか、そういうのを見出した時点でその文章はMADの評論としての用を為しえないのである。

彼らが感じていること、考えていることについて、「面白いからやってる」以上の言語化を試みるなら「人が素材おもちゃになって弄り回されているのを見るとアイロニーを感じて面白い」とか、これくらいが限度だろう。

つまり難しいこと(注:これにはまともな社会倫理も含まれる)を考えず、素材をいじって音に乗せて気持ちいい動画を作ればMADの精神を理解したも同然であり、逆に深みのある社会的なメッセージ性の沼に沈んだならMADの精神から外れてしまうのだ。