複雑性と本質
自分は何かにつけ、シンプルで本質を切り出したような風体の作品が好きだ。
例えば優れたドット絵というものは、微細で複雑な描き込みを取り払いつつ、最小限の情報量で的確にキャラや物体などの存在が伝わるように出来ている。
シンプルな線や塗りで最大限を表現するという意味ではセル画などもそうだ。複雑な陰影のグラデーションも無ければ細かい線描もないのに、それを見ると確かにその世界のものとしての存在感がある。存在としての確からしさがある。そういうのをすごいと思う。マリオ64やぐるみんなどのローポリな3Dモデルも好きだ。
あとは数式。極めて単純で美しいシンプルな数式が普遍的な物理法則を表していたりする。ダランベルシアンで表されたマクスウェル方程式など、初めて見たときは本当に感動した。数式はまさに切り出された本質に他ならない。
アニメや漫画・小説の物語の類にもそういうものを見ることがある。極限まで余計なものが削ぎ落された物語には登場する人・物全てに意味があり、1つの大きな柱のために全ての流れが意義を為していて、ジェンガのように1つでも下手にいじれば全てが崩れてしまうように思われる。それでいて全体を見渡してみると研ぎ澄まされた刀のように力強く美しい。天衣無縫というものだ。
こうしてシンプルなものこそが素晴らしいようにつくづく思っていた。余計なもの、無駄な複雑性が無いことこそが美しさの根源であると。少ない情報量で大きな理を為している、単純な内容で大きな本質を伝えているものだけが美しいと。そう思っていた。
しかし最近、自分の好きなコンテンツの中に、それの反例と言うべきタイプのものが浮かび上がってきた。それは「量的な複雑性そのものが本質である」というタイプのものだ。
一癖も二癖もあるキャラクター達がぞろぞろ出てくるタイプの作品がある。そのキャラクター達は個性的ではあるが、ある種交換可能でもある。聞こえは悪いが。つまり個性が強いキャラクターでも、別の強い個性を配置すればそれはそれでちょっと別の物語になるだけで成り立ってしまうだろうなというタイプのものがある。ネウロの犯人役などがそうだ。彼らは「個性的」ではあるが、必ずしも「そのように個性的である必然性がある」とは限らない。個性が強くても交換可能性があるとはそういうことだ。
しかし個性的なキャラクターがやたらめったらぞろぞろ出てくる、「複雑」な物語作品が必ず不格好かというと、どうもそうではなさそうなのだ。
大量のキャラクターたちが各々に芯を持ち、それらが様々な時系列上でn体問題がごとく相互に影響し合うものがある。そういう作品は「複雑」で、時にその複雑性の一部は交換可能であったりもするが、「複雑であること」自体をそぎ落とすことは出来ない。個々のごちゃごちゃを見てみれば作品の本質に関係ない余計なもののように見えることもあるが、それらを削いでしまえば作品の本質が変わってしまう。「複雑な秩序が形成されていること」自体が本質だからだ。
そうしてそういう作品が、そういう予測不可能な世界が、最終的に全てが交換不可能な意味を持って1つの答えに終着するときには、そこには度肝を抜かれるような衝撃がある。