新しい懐かしさ
まず、前置きとして自分がこれまでに大ハマりしたコンテンツについて書きたいと思う。まず洞窟物語。そしてスプラトゥーン。二号兄貴。そして一番最近のがけものフレンズだ。
自分はそれらに何か共通する性質を感じていた。それに内在した性質ではなく、自分が感じた感触に関する共通性だ。それの言語化を試みたいのだが、要約するにそれらは新しさと懐かしさだったのだと思う。もっと詳しく説明しよう。
新しさというのはあまり言うまでもないと思う。要するに今まで自分がみたことのないもの、それがその自分にとっての新しさだ。自分はチップチューンとドット絵で心に響く音楽と練り尽くされた世界観を演出することができるとそれまで知らなかったし、インクを塗ることに命をかけるお祭り好きでヒップホップなイカを見たことがなかったし、子供でもわかる易しい言葉でどこまでも深く優しい世界を作れることを知らなかったし、編集されたホモビ男優の喘ぎ声でガチ感動できるとは思わなかった。
新しさは分かりやすい。しかし懐かしさとは何か。自分が定義を与えるに、それは拠り所とできるあり方、安心できる場所だと思う。要するに「地面」なのだ。
全く不安定な世界の中に現れる刹那の美しさは、それはそれで美だ。しかしそれは拠り所にはなれない。寄りかかれば崩れてしまう砂の城だ。それはどれだけ素晴らしくても自分が定義する所の「懐かしさ」を持てない。
誰かの礎となれるものだけが安心感を誘起出来る。例えば優しい田舎のおばあちゃん。彼女は力で言えば大人の男に到底敵わないだろう。しかし孫に「あんたなんてこの世に要らないんだよ」と言いつけることが果たしてありうるだろうか?絶対にない!そう、礎になれるとは物理的な力や丈夫さの話ではない。絶対性、揺るがなさ、それは安心感だ。
懐かしさのある世界。そこには何かしらの「当たり前」がある。それはちょっとやそっとで決して揺るがない。誰かがそれに疑問を投げかけても、そこの住人はきょとんとするばかりだろう。「だって、事実でしょう?」という具合に。それが安心感だ。私たちはそれに触れる。住人がそれを当たり前だと思っていることに、そしてそれが実際にどう見ても「当たり前」であり、ただの事実でしかないということに。私たちはそれに触れるうちに疑問をもつことが出来なくなっていく。「疑問を持つことを我慢して自分の中で抑える」とか、「怖い人に脅されて疑問を表に出さないようにする」とかじゃなく、自力で、自然に、疑問を感じる能力を失っていく。そうして私たちはそこの住人になる。それこそがその当たり前が「地面」であるということ。懐かしいということだ。
そういう、何かしらの「当たり前」がある世界の中で、その「当たり前」が見たこともない「新しさ」を持っている。それこそが自分の好きなものに通底するものだ。懐かしく、新しい。それはつまり新しい大地のことだ。
詩的に言うならば、自分は常に大海原を航行している。既知の有名な「島」や「大陸」の上でのんびりと生活している人もいるし、それも良いものだろうと思う。また、一生涯を海の上で過ごしてそれを愉しみ謳歌している人もいると思う。しかし自分は新しい「地面」を知りたい。まだ知らない土地を知りたい。それが自分の衝動だ。動機だ。のどの渇きだ。まだ人の少ない大地や生まれたばかりの陸地、それは「新しさ」であり、自分はそれが好きだ。
もしも自力で完全に新しい陸を1つでも見つけたとしたら、自分は舞い上がって喜ぶと思う。死んでもいいと言って泣き出すかもしれない。それは生涯最高の喜びだろうと思う。
しかしそれでも、自分は再び海に漕ぎ出すだろう。新しい大地を見つけ続けること、それが自分の望みだからだ。
追記
上記に関連したことを少し語ろうと思う。あまり個別の作品について知らない人は読んでも良く分からないと思う。
自分はスプラトゥーンは好きだがスプラトゥーン2はそうでもない。単にSwitchを持っていないくて未プレイだからというのもあるかもしれないが、興味の時点で惹かれてもいない。
自分は何かにつけて続編というものをあまり好意的に見ない。(嫌う訳ではないが。)それはクオリティの問題ではなく、それは「地面」ではないからだ。初代が「新しい地面」だったとすれば、続編は内容の巧拙によらず「既知の地面の上で踊る者」でしかない。だから別に嫌う理由もないが好意的に見る理由もないのだ。
次にケムリクサというアニメについて。けものフレンズと同じ監督であり、自分はあれにも大層ハマった。ではケムリクサは「新しい地面」ではないのかと問われたら、自分は「そうだ、あれは違う」と答える。ケムリクサは「新しい地面」を見つける過渡の者たち自身の物語であり、地面そのものではない。だからこそ同志として、先達として、先生として尊敬できる。ケムリクサの主人公らは最後に「新しい地面」を見つけるがその内実は全く描かれていない。だから一般性がある。だから一般の「海の航行者」の先達として尊敬できる。それが自分の中でのケムリクサの立ち位置だ。作中の言葉を用いて「ケムリクサが『好き』だ」と語る人は多かったが、自分はあの手のノリには今一つ乗れなかった。別に他者のそういう言葉を否定するわけではないが、自分にとって何となくそういう感想はどこかレイヤーを間違えている気がするように思われるのだ。
また、あまり作者周りのことを関連付けて作品を語るのは好きではないのだがあえて言及する。監督脚本がおなじたつき監督だからか、けものフレンズとケムリクサをクロスオーバーさせる二次創作は多いが、自分はどうもそれが苦手だ。なぜならば、自分はたつき監督もまた「何度新しい陸を見つけても海に漕ぎ出す航行者」であることを疑っておらず、また「けものフレンズもケムリクサも『たつきランド』という既知の同じ地面の上で踊る者でしかない」という風には決して思いたくないからだ。
それから胎界主という漫画があるのだが、うん、ええと、この記事の「海」と「陸地」の比喩は正直にばらすと大体胎界主由来の隠喩だ。全人類は胎界主を読め。全話無料だぞ。