非常に抽象的というか一般的な話を言うが、最近の時代は理解を得てこなかったものについて理解してあげようだとか、今まで放置されていた苦しんでいるものを救おうという流れが強い。具体例としては不登校やうつ、発達障害に対する理解、動物愛護、ちょっと遡ると女性や子供の人権などである。

もちろん良い流れではあるのだが、そのような活動をする人間の行動原理は大きく二分されるのではないだろうか。一つは実益、もう一つは「かわいそうだから」だ。

例えば発達障害と言われている人の才能も活かさないと社会損失であるとか、安楽死した動物の肉の方がうまいだとか、生物多様性が必要だとか、前者の実益を基に動く人は論理も原理も明解で良い。問題は後者だ。

自分は博愛主義者よりの人間なので、後者の人を否定するつもりはないし、実益だけで動く人間しかいないのは寂しいだろうとは思う。しかし、「かわいそうだから」で動く場合は常に「私はかわいそうだと思う」「私はそうは思わない」という齟齬を意識して「じゃあ『我々』はどこまで救済をするべきなのか?」について考える必要があろうと思う。視野の狭い自分の了見ではあるが、非実利による救済を求める人には、どういう基準で救済するのかについて主張したり議論を深める人があまりいないような気がする。

例えば、虐待されている猫を見たら、非常に多くの人が「かわいそう!」「誰か助けてあげて!」と思うだろう。しかし、マクロファージに攻撃されている病原性細菌に対して「かわいそう!」「シャーレに移してあげて!」と思う人は皆無に等しいと思う。この間は何かゼロイチで分けられる決定的な何かがあるのかと言うと、無いのだ。

どちらも同じ生命であり、細胞の数や遺伝子が違うといった連続的な違いでしかなく、この例は滑らかなグラデーションの端と端をとって見せつけたに過ぎない。「意識の有無」などを考える人もいるが、自分はそれはあてにならないと思う。思考能力云々で考えればそれこそ人から猫、プラナリアまで連続的な差しかないし、クオリア云々で考えれば自分以外の人間に存在するかどうかすら確かめようがない。哲学的ゾンビなんて言葉もあるくらいだ。

非実利による救済について、救済を行うべきか否かを判定する基準が判定する対象のみにあるならば、どこかに線引きをしない限り我々は「全ては救わなくてよいものである」か「全ては救うべきである」のどちらかに落ち着かざるを得なくなる。前者の世界は実益と各人の気まぐれに基づいてしか救済は行われず、後者の世界はまあ不可能である。とするならば前者の世界を認めない場合、我々はどこかに恣意的に線を引く、もしくは判定関数の変数として救済対象だけでなく救済する側も入れる必要がある。これは大前提であると思うし、この論理に欠陥があるなら是非ともコメントで教えて欲しい。

とにもかくにも、論理的破綻をもたない世界としてありうるのは「①実益と各個人の気まぐれによってのみ救済が行われる世界」「②どこかで線引きが行われ、人々の感情など関係なくその線で救うべきか否かが分かれる世界」「③時勢次第で救うべきかが変わる世界」の3つになる。今の社会が近いのはどれであろうか。

恐らく②ではない。②であれば貧乏人が飢えている間に動物愛護団体が騒ぐことはないだろう。(人にとって必ず人>他の動物である、というのを認めない場合はこの限りではない)

③は近いかもしれない。しかし、上と同様の論理でちょっと違うかなという感じがする。

自分としては、今の社会は"中途半端な"①であると主張したい。

実益と気まぐれと書いたが、気まぐれとは個人の感情に関する実益であり、目に見えるかどうかの差であって本質的に同じものである。実益>気まぐれでも実益<気まぐれでもない。この論理で考えれば、愛護団体や人権団体およびその支持者(救済対象自身を除く)の行動は全て個人の気まぐれのあつまり、感情を解決したいわがままである。

わがままと書いたのは非難ではなく、金銭目的も感情目的も等しくただのわがままであって博愛主義も別に崇高なものではないし皆等しいという認識をもってほしいというものである。

中途半端な彼らは「どれそれは救われるべきものだ」と高らかに宣言する。しかしそれは彼らの勝手な基準にすぎない。②の世界を目指すのは良いが、どのように線引きを行ったのか、外部へ向けて真面目に解説し議論することはない。全てがそうとは言わないが、内部でしか線引きについて議論していないのならば、それこそ本当にただのわがまま、すなわち交渉すらせず駄々をこねるということである。

自分の理想は①の世界だ。人々が豊かな感情を持った①の世界だ。愛護主義者は「自分の博愛はただのわがままである」と自覚した上で、社会に「どれこれを救済しませんか、こんないいことがあるんです、それにかわいそうですよ」と実益と感情双方に訴える。内側の感情までは知らないが、実際に活動として「駄々のこね方」ではなく「交渉」を行う団体はあるし、それはとても目指されるべきものだとおもう。