「社会がつらい」2種類
これはただのちょっとした思い付きなのだが、ある日、「社会がつらい」という言葉には2種類あるのではないかと思った。 そもそも「社会」という言葉によって指される概念が2パターンあると思うのだ。 1つは、「学校」「会社」といった個別具体の社会である。あの社会、この社会と指すことのできる社会だ。 そしてもう一つは、それら全体をひっくるめた抽象的な社会である。 別の言葉で説明するなら、例えば「りんご」という言葉を手に取ろう。日常会話で「りんごが腐っている」などという発言をしたら、それは恐らく目の前にあるか、あるいはその人の家で冷蔵庫にしまっていたそのりんごが腐っていたということだ。間違ってもこの世の全てのりんごがそれぞれ腐っているということはあるまい。それに対し、「りんごが好物だ」といった発言はどうだろう。これは個別具体的なりんごではなく、この世の全てのりんご、もしくは抽象的にその人の頭の中に描かれたりんごを指す。目の前にりんごが置いてあって「りんごは好物なんだ、頂戴よ」などと言ったとして、発言者は目の前のりんごそのものを食べたことがあり味を知っているという訳ではないだろう。この「りんご」が指しているのは目の前にあるりんごではなく一般的なりんごなのだ。 話を戻そう。「社会」という言葉にもこのように、具体的な社会を指す場合と一般的・抽象的な社会を指す場合があると言いたいのだ。 多くの場合において、「社会がつらい」と言った人は、その人の現在住んでいる具体的な社会を指して言っているのではないかと推量する。 「会社に行くのが辛い」「学校での人間関係が辛い」「就職できなくてつらい」といったつらさは特定の社会に内在するものであり、つまり別の社会においては解決されるかもしれないものだ。 しかしここで僕は、具体的な個別の社会ではなく、「集団の中で存在すること」「社会すること」「社会ということ」自体に起因するつらさがあるのではないかという概念を提案したい。 正直に言って、二つの区別は多少曖昧だ。多くの具体的な社会で観測されるつらさと「社会すること」それ自体にあるつらさを区別することは難しい。しかし、社会すること自体につらさがあるという考え方を認識していないと、あらゆるつらさを個別の社会に求めて、あらゆるつらさについて「『この』社会が悪い」という思考に辿り着きかねない。 場合によっては「『この』社会が悪い」のではなく、「『社会すること』それ自体が完全に悪い」かもしれないのだ。