普通に
少なくとも僕は、「普通に」という言葉が指すところの語概念を教科書に載っているような日本語で簡潔に表す能力を持っていない。そこで、簡潔な言い換えが出来ないのならばせめて多少冗長であっても妥当な説明を、と思ったのだが、僕にはそれすらも即時にはままならないのであった。 「普通に」という言葉の芯たる概念は何か。「そのもの」をつかみ取れないなら、外縁がら攻めて行き「輪郭」をつかみ取ると良いだろう。 まず、若者言葉「普通に」の反意語はなんだろうか。ここで、単純に「~でない」を付ければ良いというものではないということに気づく。 同じ若者言葉である「ヤバい」であれば、とりあえず機械的に「ヤバくない」とすれば否定にはなってくれるだろう。しかし、常用される「普通に」に対して「普通でなく」はまた別の言葉となってしまい、否定にすらなってはくれないのだ。 「キモい」「エモい」「ヤバい」といった言葉はとりあえず「~でない」の形とすれば否定の意味にはなってくれる。それはなぜならこれらの修飾語が、あくまで物体・状況・概念といった「頭の中でひとつひとつ手にとって扱えるような対象」が持つ何らかの尺度を表す語でしかないからに他ならない。 それに対して「普通に」が表すのは何らかの尺度の多寡ではないように思われる。「ヤバイ人」は「ヤバさ」を持っている。「朗らかに笑う人」の笑いには「朗らかさ」がある。しかし、「普通に面白い人」の面白さが何らかの「普通さ」を持っているとは到底思えないのだ。 「普通に」という言葉はなんらかの観念的なパラメータを表す言葉ではない。もっとどこか、メタなところにある。 次に僕は、「では『普通に』という言葉を付けなければどのような意味になるか」ということを考えてみた。 考えて見ればおかしな話だ。「普通」という言葉は「何も特別でない」ということを指すのだから、本来ならばある単語に付けた付けないで意味は変わらないはずなのだ。 1つの例として、人に絵を見せたときに「すごい」と言われた場合と「普通にすごい」と言われた場合を考える。 すると、単に「すごい」と言った場合は様々な「暗黙の修飾」が浮かんでくるのだ。この「すごい」は、あくまで他者から作品を見せられたことに対する儀礼的な賞賛の言葉かもしれない。あるいは、自分には真似できないという諦念と尊敬の眼差しをもって「いやあ、すごいなあ」と言ったのかもしれない。それか、(自分のほうが上だけれども)という注釈付きで、やや上から目線で「うん、すごいすごい」と半ば投げやりに発されたのかもしれない。つまり、言葉には必ず「文脈」や「言外のニュアンス」といったノイズが付きまとう。より単純な言葉であるほど、受け取った人間はより複雑な想起をしうる。これが答えなのでは、と僕は思った。 つまり、プリミティブな言葉をプリミティブなままに伝えたい。そのようなときに登場したのが「普通に」という言葉ではないかと思ったのだ。 どうしても言葉に付きまとう文脈。それは今までの蓄積を含めた概念を少ない言葉で伝えるのは便利かもしれないが、本当に単純な概念を本当に単純なままに伝えるには大きなノイズになる。蓄積が大きければ大きいほどだ。 どうしても言い方に混ざる感情。感情が無い人間などそうそう居やしないだろうが、そのとき自分が持っている感情はそのとき伝えたい情報に含まれないということは多いだろう。本当に重要なものだけを届けたいということは間違いなくある。 これらの障害を緩和させようとするのが「普通に」なのではないだろうか。「暗黙の修飾の存在を否定する修飾」「反修飾的意味の修飾」それが「普通に」の正体なのではないかと思うのだ。 これなら「~でない」の形が通用しないことが説明できる。「『普通に』でない」ということはその言葉がプリミティブでないということである。つまり文脈や感情などが付いた可能性がある言葉であり、本来の意味において「普通」な言葉なのだ。そのような言葉であることを明示する意味は本当に全くない。ゆえに発生もしなかったのだ。 うがった見方をすればこのような言葉の出現は、言葉を話す・聞くときのややこしい前後の文脈であったり、良くも悪くも日本語に埋め込まれた「奥ゆかしさ」にある面で嫌気がさしている証左と言えるのかもしれない。ただ単純に言葉を言えば相手は「無いはずの意味」を読み取ってしまうだろうという考え、あるいはそもそも相手も言葉のノイズが不毛と思っているだろうという前提の上で「無理に読み取らなくてもいい(読み取らないで欲しい)ですよ」「私は余計なものは付けたくないですよ」という意思表示なのではないだろうか。 もしかすれば、修飾しているのは直後の語句ではなかったのかもしれない。「普通に面白い」の「普通に」は「面白い」にかかっているのではなく、「私は面白いと、普通に思います」という文章が省略されていった結果だったのではないか。「普通に」は直後の語を修飾していたのではなく、話し手の伝える態度を表していたのかもしれない。 最後に、言語と言語感覚は変わり続けているから、この記事もあくまで僕の感覚で書かれたものでしかないことを了解されておきたい。