社会人の口から、耳にたこができるほどよく聞かれる言葉の一つが「もっと学生のうちに勉強しておけばよかった」だ。

この言葉を発言者の後悔として愚直に受け取ることは簡単であるが、この言葉を人ではないシステムの側の問題が如実に顕在化した実体として捉えるコンセンサスがないのは果たして一体どういう訳だろう。

勉強は元来誰でもいつでもできるべきである。老化が進むと新たな知識が付きにくくなるとか、そういう意味において「若いうちに勉強しておけばよかった」と発言するのなら意味が通るが、この発言におけるこころはおおよそ「社会人になった今、あまり勉強の時間がとれない」といったことであろう。

ここがシステム側の欠陥の証左である。つまり、世の中には勉強に時間が割ける社会階級と勉強に時間が割けない社会階級があるのだ。権利の類の歴史に明るいわけではないが、教育を受ける権利は社会人とて平等に保証されるべきではないか。そして、問題はそこにとどまらない。

低俗なステレオタイプになるが、学生というものは勉強をしたがらない。とにかく遊びたがる。しかし社会人からは学をつけておけば良かったという声が飛ぶ。これはつまり、勉強に時間が割ける人種に限って勉強の必要性が理解できる環境におらず、逆に勉強に時間が割けない人種に限って勉強の必要性が理解できる環境にいるということだ。これは権利の格差問題とは全くの別軸として存在する理不尽である。

これら二つの理不尽の根源は学生の時分に勉強しなかった人だけにあるのではなく、システムの側やあるいはシステムと人との間の相性にあると考えるのが妥当と思う。

最大多数の最大幸福のために必要なのは「学生の内に勉強しておけ」などといった効力の少ない注意喚起などではなく、システムの側の変革ではないだろうか?

それがどのようなものかは知らないが。