弱者救済の原理
ムーヴメントには原理が必要だ。あれらは、きっと道義的な理由を原理とするだろう。それは問題ない。そのような原理の場合は問題ないのだが、ときに、ちょっと問題視したい場合がある。
それは「現状...は差別されているが、...は~~という長所もある。ゆえに救済すべきだ」というものである。僕はこれを問題視したい。
純粋にそのような「特有の価値」だけを原理に救済ムーヴメントが起こるようなものは目にしたことが無いが、「彼らがかわいそうでしょ、それに…」といった形で補助的に使われることはある。僕はそれは良くないと考えている。
Aを被差別属性、Xを特有価値としよう。ここで「A→X」という論理でAを擁護すると、だいたいの場合「¬A∧X」という人や「A∧¬X」という人が出てくる。そのため、だいたいそのような論理は破綻を引き起こしてしまうのだ。
「彼らは誰にも迷惑をかけてないのに」という擁護も良くないと思っている。先ほどとおなじ論法で、もし迷惑をかける者が出ればその瞬間に擁護できなくなってしまう。
「彼らを助ければ社会的に良い効果がある」という原理も良くない。そのような効果が無いと後から分かれば、救済はされなくなる。
個人として僕は弱者救済のムーヴメントを続いてほしいと思っている。なぜなら自分がいつでも弱者になりうるからだ。
持続してほしいので、原理のロジックに脆弱性を含めないで欲しいと考えている。
そしてそもそも弱者救済は、もっと無差別的であってほしいと考えるのだ。同じ弱者が、価値があるから救済されたり価値が無いから見捨てられるのは良くないと考えるのだ。
しかしこれは理想論でもある。「価値が無いものに投資できない人間」というのは当然存在し、マジョリティであることすらありうるだろう。上の論理は、まさにそのような人間を斬って捨てる論理である。できない人間を斬って捨てるのは、弱者救済の思想に反する。無差別な弱者救済を全人類に求める考えは、自己矛盾を引き起こすことになる。
ならば、価値が無いものに投資できない人間という「弱者」を救済するための方法として、「価値があるために救済すべきだ」という原理はあっても良いとも考えられるのだ。
結局、問題視した原理はあっても良い(仕方ない)という結論になってしまったが、あくまで僕の意見は「弱者救済は実益に無関心かつ無差別的に行われるべきだ」というものである。
どうか、賛同できるならば覚えておいて欲しい。