一晩寝て考えたらふとなんとなく理由が分かった気がしたので一記事。他の人も同様な原理かは分からない。

まず自分の中にある欲求として「欲望が自己完結していたい」というのがある。たとえば「褒められるから勉強したい」ではなく「ただ楽しいから勉強したい」でありたい。「感謝されるから人助けしたい」ではなく「人助けしたい欲望があるから人助けしたい」でありたい。あるいは他人が関わる欲望だとしても、たとえば「自分が良い人に思われたい」ではなく「『自分が良い人に思われている』と自分が感じていたい」でありたい。

平たく言えば倫理的利己主義と自律欲求、男性的な「独立的でありたい」欲求である。

しかし、当然のことながら自分の中にはそれだけが存在する訳ではない。「独立的でありたい」欲求だけでなく、女性的な「集団の中で承認が欲しい」欲求も当然ある。(インターネットには承認欲求を否定的に扱う文脈が時折存在するが、一応言うとこれは一切否定的な意味合いではない。)

自分の中にある独立欲求は承認欲求を撥ね退けようとする。承認欲求は他人との関わりを前提とした欲求であり独立欲求とは背反するからだ。独立欲求は承認欲求を排斥しこの自己の性質を変えたがっている。

「自分の性質をこうしたい!」という欲求があるとき人はどうするか?典型的な行動の一つとして、そのような性質である存在とお近づきになる、そのような性質で無い存在を遠ざける、というものがある。朱に交われば赤くなるを自分に応用しようとする、「自分に無いものを他人に求める」の原理だ。

これこそが「インスタ映え」文化を遠ざけ唾棄しようとするエネルギーの源泉ではないかと思っている。

自身の中に女性的な承認欲求があり、それを男性的な独立欲求が排除しようと働いている結果がこれではないかと思う。