「反省はしろ、後悔はするな!」という言葉を今までいったい何度聞いたことだろう。

言わんとするところは分かる。後悔の念に振り回されれば次に取り組めないというのは分かる。しかし、後悔<反省という図式を金科玉条のように守ることには常々どこか引っかかって生きてきた。ここで少し、「本能」と「理性」の大雑把な二元論で持論を書いてみたいと思う。

 

多くの「反省」至上主義者はこう考えているのではないか。

「過去を悔いて動けなくなったって仕方がない。大事なのは失敗した理由を考えて次に活かすことだ!」まったくもってその通りだ。

しかし、だったらなぜ人間は失敗をすると自然と後悔をするように出来ているのか?反省の方が有用であれば、人間は失敗をすると自然と反省をするように出来ているべきではないか。

 

私たちは何か失敗をしたとき、恐らくニュートラルな普通の人間であればだいたい後悔の念が湧き上がってくると思う。「ああで、こうだから、後悔しなければならない」みたいに理性が判断するから起こすのではなく、内側から自然と湧き上がってくるものだ。つまり、脳内の反応としては理性や思考よりも本能や感情の方面に属する。

後悔が自然と誘起するものは主に二つあると思う。一つは強い負の感情、もう一つは「あのときああしていれば!」という過去のifに関する思考ではないだろうか。

 

それに対して「反省」というものの中身を考えてみると、論理的なものである。

「失敗」→「失敗の理由の分析」→「改善方法の思索」というものだ。そして反省のみを行った場合の理想的状況を考えると、感情に潰れて動けない状態、復帰時間というものは0になる。これはいいことづくめのように思える。

 

後悔と反省の違いについて考えてみよう。

①発生源(本能 / 理性)

②理由の分析の有無(無 / 有)

③負の感情の存在(有 / 無)

だいたいこの3点だ。これを正しいと仮定し、以下のような仮説を立てた。

 

原始の時代は、恐らくは今よりよほど単純な生活であった。

共同体内の人数は少なく、主な解決されるべき問題は衣食住の確保や争いごとである。

その中でより有用に働くのは反省よりも、後悔だったのではないだろうか。

単純な生活ゆえに、ほぼ同じような問題に二度でくわすことは現代よりもはるかに多かったであろう。例えば狩りをしたが獲物に逃げられてしまった、などだ。

するとその場合、「ああすれば良かった」は非常に有用な効果を及ぼす。同じ問題に二度直面すれば、前回の「ああすれば良かった」はきちんと活きるのだ。

そして負の感情も問題の解決に関して良い影響を及ぼす。

感情を伴わない思考よりも、感情に刻み込まれた思考は遥かによく残る筈ではないか。当たり前のことだ。

それに、同じ問題に直面するならば、感情を糧にそれをぶつけるように力を出すこともできるだろう。いづれにしろ負の感情は問題解決の役に立った。

そうして原始の時代を生きた我々には、失敗をすれば後悔をするという、生存に有利に働く回路が刻み込まれていった。

しかし、時は流れて現代。

社会は目まぐるしく変わり続け、全く同じ問題に直面することなど皆無と言ってよい。すると失敗を次へ活かすには「ああすれば良かった」だけでは足りなくなる。

理由をしっかり確認しなければ、失敗の原因をより根源深く考えなければ、失敗を活かすことはできなくなったのだ。

新たな種類の問題が生まれる頻度も鬼のように上がる。すると負の感情に溺れている暇もなくなる。

ああ、なんということだろう、遠い昔に我々を支えていた「後悔」の回路は、現代にいたり白い目の視線を得るようになった。

 

現代社会においては、後悔をするよりも反省をする方が問題解決に向いている。現代社会を生きる人間としての丁度良い塩梅の状態、中庸はきっと「反省」よりなのだ。それは認めよう。

しかし、反省至上主義者は是非とも、後悔のことも少しは気にかけて欲しい。後悔と反省が陰と陽の如く調和し、相互に影響しながら問題の対策を得ることこそが本来の姿だと自分は考えるためだ。

そもそも自然に出てくるのは後悔のほうなのだから、自然に出てくるものを活かさず押さえつける選択肢があるだろうか?我々は自然と後悔をするようにできているのだから、わざわざその回路を無理やりオフにして理性で0から全部やるというのは愚の骨頂だ。真に不自然な在り方だ。

じゃあ太古の人間は後悔の方が有利でそう進化したんだから、現代を生きる人間も反省の方が自然に出るように進化すればいいじゃないか、という考え方もあるが、それは人間性の否定だと思う。人間らしさとは何であるかというのは、AI時代の黎明期である今まさに言論が行われていることであるが、個人的には「感情の力」と「理性の力」の混合性が人間らしさだと思っている。感情や本能、自然の力に溺れたとき、人間は人間らしさを無くし、ただの動物になる。同様に、論理と理性の力に傾倒したとき人間は人間らしさを失い、ただの有機コンピューターとなる。反省の方が自然に出るように進化するということは、そういうことではないかと個人的には考える。

この文章の論理上、反省>後悔の図式を叩くことはそのまま現代社会批判となりナンセンスなのでやらないが、「反省をしろ!後悔はするな!」はあくまで人間が現代社会に即した結果であり、絶対的な真理ではないんじゃないか、という話を伝えたい。