この間、学校が休みになったので珍しく昼の報道番組を見ていた。すると、相撲界でパワハラが起きたことに関する報道をやっていた。

スタジオには順に解説していくための巨大なフリップがあって、その一番上には「また角界」という見出しがついていた。

ここで自分はとても激しい違和を感じた。

「また角界」だと

『起きた場所』に注目し続けた結果、また『角界』だった。

という印象を受ける。それはおかしい。

ニュースは常に様々な場所で起きているので、正しくは

『角界』に注目し続けた結果、また『起きた』。

であるはずだ。順序が違う。

理想的には「角界でまた」だ。これならある程度正しく伝えている。

…という話を母親としたところ、「また、角界で」でも「角界で、また」でも変わらなくない?という指摘をうけた。

なるほど確かに「また角界で起きた」と「角界でまた起きた」でも恐らくあまり変わらない。

が、「起きた」が無いとなると話は変わってくる。

ここからは恐らく自分の感覚の話になってしまうが、「また」と来るとその直後に述語を補いたくなってくる。

「また起きた、角界で」と「角界で、また起きた」だと、最初に二つ挙げた通りの印象に(というか解釈に)なる。

 

それと、原文は「また角界」だ。述語に比べて、単独の助詞は感覚的に補いづらい。「で」がないとなると、「また角界(で)(~が)(起きた)」という補い方はそもそも難しい。

むしろ「また(~が)角界(だった)」もしくは「また角界(が)(~だった)」という補い方の方が自然な感じがする。(他の人の感覚も同じかどうかは謎)

となると、「また角界」から受ける印象は「また(パワハラが起きた場所は)角界(だった)」もしくは「また角界(が)(パワハラが起きた場所だった)」である。

どっちにしろ、「またパワハラが起きた場所」で限定していくと「角界」に辿り着くような状態に聞こえる。それはおかしい。

ここからちょっと主語が大きくなっていくが、報道関係者各位、これに限らずあらゆる場合において、間違ったように聞こえる可能性を出来る限りで良いので0にしてほしい。0に近づけるのが難しい場合(今回は当てはまらないだろうが)は、そもそも「また」のような文脈を付けないで欲しい。まったく捉え方を介在させず事実だけ伝えるのも難しいかもしれないが、それでも事実と捉え方と両方を伝えようとして間違って伝わるよりは、捉え方の情報量自体をバッサリ削減して事実だけを正確に伝えることの方が簡単ではないだろうか?