物語に時折見る構造として、「個人を大事にしない合理主義の敵チームvsメンバー一人一人を大事にする主人公チーム」というものがある。これについて一つ違和感があるなあということをふと思った。

このとき「主人公チーム」が勝利したとしよう。すると、成果を出す方法を理詰めで考えるのが合理主義だとしたら「一人一人を大事にする方が戦略として有利」という「理」が得られる。すると、なんのことはなく「個人を大事にする方が合理的だった」というだけの話にしかならない。このような物語はアンチ合理主義にはなっていないのだ。

そもそも合理主義と個人の尊重は対立事項ではない。そもそもまず自明と思われる事柄として、成果が出ることと個人の幸福は強く相関している。すると成果を出すための合理主義は個人の尊重とぶつかるどころか、互いに密接な関わりを持っていると言っても過言ではないのだ。

もちろん「チーム」が非常に大きい場合、例えば国家のような単位なら、先ほど「自明」とした「全体の成果∝個人の幸福」という図式は崩れてしまうが、その話は一旦置いておく。今ここでは数人~数十人程度のチームの描き方について考えている。

合理主義と個人主義は対立事項ではない。であるならば、合理主義と対立して描かれるべきものは何だろうか。合理主義を「成果を出す戦略を理詰めで求める主義」と捉えるならば、対立事項は「理詰めでなく気持ちでやっていく主義」、すなわち根性論ではないだろうか。

合理主義のチームと根性論のチームが全面衝突する物語…何のひねりも加えなければ、根性論チームが玉砕して勝負にすらならずストーリー終了でつまらなそうな気がする。訓戒ものというか、短編の寓話的なものとしてならいいかも。

さて、では「合理主義⇔根性論」という対立図式があるなら、それと独立して「個人主義⇔~~~」という対立図式もあるはずだ。~~~に入るイデオロギーはなんだろう?

となると、ここに入るのはやはり「全体主義」ということになろう。ここだ。ここに違和感がある。一旦置いておいていた話が出てきてしまった。

そもそも少人数の集団では個人主義と全体主義は対立しにくい。個人と全体の乖離度は人数に比例するからだ。つまり、自分が「的外れな合理主義批判」のように見ていたものは「全体主義批判」だったわけである。そして、少人数の集団では個人主義と全体主義は対立しにくい。そのために全体主義批判にすらなっておらず、元からあやふやだったわけである。

 

なお、ここにある文章は既存の如何なる物語を否定するものでもなく、今後の参考になったらいいなという程度のものである。物語にメッセージ性をつけないのであれば、ここにある文章は特に参考としての意味を為さない。