従来自分は、物事を科学的に見る見方と感情的に見る見方は対立事項として考えていた。自分はどちらに与する、というものではなく、どちらの見方も持っていて、科学の視点から見ればAだ、しかし感情的にはBを選びたい、みたいな場面はよくあるものであり考えて折衷してゆくものとして了解していた。

科学の見方とはつまり、万物を「法則に従い動くモノ」として捉える見方であり、感情の見方とはつまり「人を人として捉え、ものをものとして捉える」見方であるとここでは定義する。例えば「親類に起きた交通事故」などは、感情の見方からすれば「非常に悲しい一大事件」であるが、科学の見方からすれば「動く鉄の機構と動く肉の機構が衝突した結果、肉の機構が変形し故障した」ということになる。どちらも斉しく正しい見方である。科学の見方をもってよくよく考えねば、つまり人間もものもいっしょくたにそれぞれ「法則にしたがい動くモノ」として解析せねば、次なる未来へ繋げづらい。がその一方で、人間は感情で動くものである。どうあがいても我々にとって人間とは人間であり、ものとはものであり、我々は前者が関わる場合に特殊な行動を行いやすいようにできている。感情論を無視した選択を行えば、これもまた失敗につながる。このぶつかり合う二つの見方を両方とも尊重せねばならないことは人類の宿命である。科学の見方が消えたときとは我々が「ただの猿」に戻ったときであり、感情の見方が消えたときとは我々が「ただのロボット」になったときだ。我々が人間である限り消えない、永遠の対立軸である。

しかしこのところ、この二つの見方は実は何一つ対立してないのではないかと思うようになった。なぜなら、人間もまたただの物理的物体だからである。そして、「人間が『人を人として捉え、ものをものとして捉える』性質をもった物体である」ことと「人間はただの物理的物体である」ことは何ら矛盾するものではない。つまり、「人間をモノとして捉えながらその人間の感情を尊重する」ことは十分に可能であるということだ。

自身がモノとして見られたとしても、むやみに怒るべきではない。なぜなら事実「ただのモノ」であるからだ。しかしこれは「もののように扱われたことに対して怒る」ことを制限するものでもない。なぜなら人間は、もののように扱われたら不快を感じるように出来ている物理的物体であるということもまた事実だからだ。

見方の如何に関わらず我々の目指すものはそもそも同じはずである。馬鹿らしいほどに一般的な言い方になってしまうが、「より良い状態を求める」という点において、科学の見方も感情の見方も全く共通である筈だ。ならば我々がこの二つの対立して見えるやり方においてとるべき態度とは「両方を上手く折衷してやっていく」というよりは「両方の融合した見方を以てやっていく」ことではないか。

人間の感情も物体の内であり、感情を考慮することもまた科学的の内である。

人間は感情によって行動し、行動はものに影響を及ぼす。そしてものや現象は人の感情に影響を及ぼす。つまり、ものも感情と相互に影響し合う存在の内であり、ものや現象をしっかり考えることもまた感情的の内である。

もちろんアカデミアと気持ちはほぼ別々に発展しているものであり、両方を完全に融合させるというのは難しいが、明確な線引きができないこともまた真だ。我々はこの融合的な見方をもって、例えば「自他の幸福」などのような「良い状態を目指す」ことをやっていくのが良いのではないか。