自分の幼いころからの趣味として、折り紙というのがある。これについて、自分にはひとつこだわりがある。

それは、「微調整の必要な作品は折りたくない」というものだ。

例えば「折り鶴」「かぶと」「やっこ」のような、昔からある基本的な作品などは微調整を一切必要としない。

きちんとカドを合わせるなどの基本的な動きさえできれば、ある程度以上上手い人ならばほぼ全く同じ作品が生まれる。

それに対し難度の高い折り紙作品などの中には、折り目の角度などがきっちり決まっていないものなどがある。それはつまり折るたび少し違う作品が生まれるということだ。

同じ犬の折り紙を折ったとしても、それぞれにちょっと個性のある犬が生まれる。上手い人が折れば、思い通りの姿勢に思い通りの身体バランスの犬が出来るかもしれないし、あまり上手くない人が折ると、同じ折り図を辿っているはずなのにどこかバランスの変な犬が生まれるかもしれない。自分の中ではそのような作品を「折り紙」と中々呼べないのである。自分の中においてそれは「折り紙」ではなく、いわば「紙を材料とした彫刻」だ。

この趣向を他人に話すと、「絵とか彫刻っていうのは作るたび違う物が出来るのが楽しいんじゃないかと思うんだけど、それと逆なんだね」と言われた。まさにその通りだ。

そもそも自分が折り紙に求めているものは、絵や彫刻を作るときに思う「上手く作ってみたい」ではなく、「完璧なものを完璧に作りたい」なのである。

自分にとっての折り紙の面白さとは「同じ折り図に従えば同じ作品が完璧に出来上がる」ところなのである。ここに美しさがある。自分は折り紙を通して自己表現したい(内→外)わけではなく、外にある「折り紙の技術」を実際に折って体験し、美しい前提(正方形の紙一枚)と美しい過程(折り方)から美しい結果(作品)が生まれる、この美しさを体験する(外→内)のが目的なのだ。

思えば、自分の他の趣味も似たものがある。例えば数学だ。

同じ公理や仮定から演繹を繰り返せば、同じ定理や公式が導かれる。ここに美しさがある。

あとはドット絵。普通の絵というのは描くたび違うものが生まれ、そこに再現性はないが、ドット絵は同じように打てば同じような絵柄が間違いなく出来上がる。

このような「方法の技術」の美しさの対極に位置するのが「感覚の技術」である。例として挙げるならば、職人が鍛えられた直覚で力の加減を変えたり、画家が己の感覚によって色彩を操ったりする技術だ。上に述べた通り様々な「方法の技術」があるのと同じように、世の中にはこのような「感覚の技術」も多様にある。そのどれも、欠けると社会が回らなくなってしまうものだろう。だから、どちらの価値が本質的に上というものではない。

しかし、自分にとっての「楽しむものとしての価値」について言えば方法の技術の方が上である。なぜかというと、方法の技術と感覚の技術には一つ大きな違いがあるのだ。それは、「全く同じものを体験できるか否か」というところにある。例えば、木を彫り像を作る職人がいるとして、我々はどうやったら彼の技術を自分の手の中に呼び込み体験することができるだろう。彼に頼み込んで弟子にしてもらい、どれだけみっちり学んだとしても、彼とそっくり同じ感覚の下にそっくり同じものを作れるだろうか。恐らく無理だろう。ところが、それが方法の技術であればできる。「こうだからこれをこのようにこうする」を繰り返し、まるで同じものが出来る。美しさの再現性ある体験。これが方法の技術の面白さだ。

まとめると、自分はとにかく再現性のある方法論の美しさが大好きなのである。方法論を開発すること、あるいは自分で作ったり誰かが作ったりした方法論を追体験することが大好きなのだ。

この趣向は昔から持っていたと思うのだが、言語化したのはつい最近である。同じような嗜好を持つ人はどれぐらいいるのだろうか。