ここで言う「紙」は物理的なpaperの話ではなく、文章を書く場所のことだ。

すなわち、このブログである。

ここで書いていることは時に自分の思想、時に自分の悩みだったりするが、この記事では主に後者の話について扱う。

悩みを文字にぶつけるときは、その悩みを何とかしたいという願望があるものだ。悩みを文章化すると何かしらの好転が起こるのではないか?という感覚に基づいて書く。そしてその現象はおそらく、感覚だけではなく実際に起こりうるものだと思う。

しかし、自分は文章を書くときに一つの鎖錠の如き大前提を持ってしまっている。それはすなわち、一貫していなければならないということだ。

悩みを書いていたら、書きながら悩みが解決されてきている気がした。しかし記事の最後の方になって悩みが解決されているというのは、それは記事の一貫性に関わる。記事の初段では深深刻刻に書かれていたその悩みが、終段になってふわりと軽くなり宙に浮いてゆくのだ。

それは書いている側からすれば「悩みを解決したい」願望の解決であり、願ってもやまない大成功である。しかし「悩みを書く人」である以前に「文章を書く人」となったとき、「全く一貫性のない記事」にはたと気づくのだ。

ここで記事に一貫性を持たせるとき、二つの解決法が考えられる。一つは「このような悩みを持っていたが、解決した」という記事に変えること。もう一つは「このような悩みがあり、未だ解決していない」という記事に変えること。この二つだ。

前者の場合を考える。何か悩みをもっていたが、解決したのだ。そいつはめでたい。で、どうやって解決したって?それはこの記事を書いたことさ。

それはあり得ないな、と思う。先入観かもしれないが。説明文においてそのようなメタ的構造・再帰的構造は分かりにくさの極致であり、また上記のような記事は自慢や自分語りのような要素も併せ持つ。誰が許そうと自分が許さないのだ。

また、そもそも悩みに関する記事を書くモチベーションは「悩みを解決したい」である。つまり解決した時点でモチベーションは消滅し、したがって記事も消滅しなければならなくなるのだ。自分は「こんな悩みがある」を書きたいに過ぎず、先達として「このような悩みがあったが解決した」などということを書きたい訳ではないのである。そもそも自分がある悩みを何か特定の方法で克服したとして、それは自分に適用出来た解決法に過ぎない。自分以外の誰一人適用不能かもしれない。もちろんそのこと自体は書く価値にほとんど影響しないだろうが、ただでさえ悩みが解決して風前の灯火となったモチベーションに最後の一槍を入れてやるには、十分なことがらである。以上より前者はだめだ。

次に後者の場合を考える。しかしこれは壁にぶち当たる。それは「悩みは解決した」という現実と矛盾する、嘘を書くことになってしまう点だ。

しかしこの壁は悪魔のごとき方法によって、緩やかにねじりとばすことができる。できてしまう。それは、「本当に悩みは解決していない」という風に「悩みの状態」の方を変えてしまうという方法だ。これが本記事の本題である。自分が今一番訴えたい理不尽と矛盾である。

 

分かりやすく言おう。自分は何か悩みを持った。自分はそれを文章化すると解決する、あるいは軽くできるのではないかと思った。そして記事を書き始めた。すると、記事の終盤になったところで今までの悩みが急にどうでも良いものに思えてきた。しかし自分の眼前には、悩みを連ねた文章が消すには惜しいほどに残っている。これは公開したいが、最初は「これは深刻な悩みだ」としていたのに途中で「この悩みはどうでもいいものだった」と結論が変わると、自分にとって許せないクソ文章となる。悩みは解決したのでわざわざ記事を作らなくてもいいかとも思うが、この文章を消すのはやはり惜しい。それで、「悩みはやはり深刻なものであった」と悩みを深刻化させるのである。これによって記事の一貫性も真実性も保たれたのだ。ああ良かった良かった。一人の馬鹿の悩みと引き換えに。

 

改めて文章にすると本当に馬鹿だと思う。しかしほぼ本当のことだ。これは目下の悩みである。

悩み?もしかしたらこの記事の執筆自体も、無意識のうちに、このパターンになっているかもしれない。

いやだいやだいやだ。やめろやめろやめろ。自分は悩みを、解決したいんだ。