無為な時間を過ごすと楽しさと焦燥の両方の感情が生まれる。ボーッとすることなどはまだ有意義に感じることができる。無為な時間とは、聞き飽きるほど聞いたBGMをかけながら、雑多なサイトを延々サーフィンし続けたり、とっくにクリアしたゲームをちょっとやっては別のゲームに移ったりする時間だ。

まさに何も残らない。疲れがとれることもない。なんと無意味なのだろう。しかし今日も今日とてそのような時間を費やしてしまうのだ。

なぜ続けてしまうのか?まず第一に、楽しいからだ。

なぜくだらないSNSのTLを眺めるのか?自分を考察してみたが恐らく、どれだけ質の低い情報だろうと新しい情報が流れてくるので、それは咀嚼したくなるからだ。とにかく情報を食べていないと気が済まない。あるいは自分の中の何かが「知ることが出来るのにまだ知っていない情報があるということ」自体を許さないのかもしれない。

なぜとっくにクリアしたゲームをやるのか?これも考えてみたが間違いなく、事物に感動するエネルギーを消耗したくないからだ。楽しくて既クリアのゲームというのは、エネルギーを消耗せず楽しさという上澄みだけをしゃぶっていられる点が良いのだろう。自分はそれを無意識に欲しているのだろう。感動の少ない日々に感動を求めていながら、一方で感動を億劫に思って避けているのだ。なんと自分は怠惰きわまりない…

もしかすれば、未知の感動に恐怖しているのではないかとさえ考えられる。自己の変質を恐怖している。臆病だ。

無為な時間を続けてしまう第二の原因は、焦燥感だ。

無為な時間を過ごし、無意味であってはいけないと焦燥を抱く。そしてもう少しこの時間を続ければなにかとてつもなく有意義なことが起こるのではないか、ここまでの無為に思える時間を有意義と再定義してくれるようなことが起こるのではないか。そんな期待を心のどこかに背負っている。だからSNSのTLを見続ける。だから進展のないゲームをちょっとやっては止めることを繰り返す。

第三に、そもそもとても有意義なことはとてもエネルギーを消耗するからしたくないというのがあるかもしれない。

工作も、絵も、勉強も、プログラミングも、みんな趣味だ。大好きだ。しかしそれをするにはエネルギーを消耗する。一番消耗するのはやり始めだ。だから多くの本に「まず5分だけやってみよう」などと書いてあるが、それがきっと出来ないのだ。

つまり本当にするべきは「まずは5分」ではなく「始めるために必要なエネルギーが少なくなるように工夫を行おう」なのだが、それにはその「まずは5分」以上にエネルギーギャップが大きく、結局なにも行えない。しかし「何もしない」ことは出来ないのが悲しい性である。何かしていないと気が済まない。まずやるべきは「何もしない」を抵抗なくてきるようになることだろうか?それはさておき、とにかく「何かしら」を行おうとし始める。すると、無意味なサイト巡回やゲーム周回が始まるのだ。

論理に近い感情は「こんな下らないことはやめろやめろ、すぐやめろ」とひたすら呟く。しかし直感に近い感情は「あとちょっとで、あとちょっとで何かがおこるかもしれないんだ」「これをするのが今一番精神状態に合っているんだ」とそれを拒む。拒み続ける。しかし、しかしずっとやっていると、もう分かってくる。これには意味がない。やるべきでない。そして自分はPCあるいはスマートフォンを置く。さあ、何をやろう。何もやる気が起きない。否、何かしらへのやる気だけがあり、しかしそれが体にやろうとされない。困った。何もできない。しかし何かをしていなければならない。ならないなどということをこの世の誰も規定しないが、とにかく体は何かをしなければならないと訴える。そして再びPCを開く。そして鉛をむしゃぶるかのような鈍く黒ずんだ時間が始まるのだ。

誰か助けてくれ。