この前、久々に2ch(現5ch)において「アンチスレ」と言われるジャンルのスレッドを見た。まあ、前から存在は知っているが、やはり改めてみるとすごい。負の感情がこれでもかと書き連ねられている。

あるいは、論理だてて対象の価値の低さを示したり貶しているものもあるが、そもそも価値は視点で変わるような値であり、価値が低いというのは各人々々にとっての「価値が低い」でしかない。つまりどれだけ論理だてて貶そうと、論理に先立つ価値感を持つ人には意味がないわけで、論理だてた否定は同じ価値観をもつ人にしか理解されない。なのにわざわざ否定を行うのは否定したいモチベーションが存在するからであり、つまり論理だった批判ではなく論理だった否定を行っているのは結局ただの負の感情に基づく行動であると考えられる。

なぜこんな無益なことをしているのだろう?と思った。これはアンチ行動やそれを行う人を否定する意味での疑問文(結城先生とかが言うところの「レトリカル・クエスチョン」)ではない。純粋に疑問に思ったのだ。

考えた結果として、二つの問いが浮かんだ。「好きと嫌い、どちらも同じ感情の一種だ。何か本質的な違いなどあるか?」というものと、「自分は色々な好きな作品があり、SNS上で時折それに対する『好き』を表明している。その感情表明はなぜ行っているのか?」という二点だ。

まず前者について。結論から言うと、とくに違いはないと思う。

「好き」も「嫌い」も同列に感情だ。相手がより良い状態であることを望むか、悪い状態であることを望むかの違いであり、その違いは内心の段階だとベクトルの差異でしかない。表に(他人との間に)出ることで初めてその感情に他人からの評価が付くのではないか、という気がする。

次に後者について、「なぜ自分は好きを表明するのか?」これは答えを考えなくてもいいものだと思う。感情を外部に表明したくなる原理は知らないが、したくなること自体はナマの事実でしかないので否定しようがない。とにかく自分は好きな作品などについて「好き」を感じたらそれを共有したくなり、するのだ。そういう風に出来ている。

すると突然、アンチの存在がごく自然なものと了解できてきたのだ。ファンは「好き」を表明し、共有する。アンチは「嫌い」を表明し、共有する。それら自体に本質的な差異はなく、人の目に触れて初めて「楽しい」「腹立つ」「分かる」「分からない」といった違う評価が付くのではないか。

であれば、何のことはなく、どちらも斉しくただの感情共有欲求のどれいだったという訳である。カントっぽく言えば、他律だ。どちらも倫理的価値は0である。

この文章はアンチ否定でも、アンチ否定否定でもない。ましてやファンの否定でもない。これは相互理解の道しるべとしたい物だ。ファンもアンチも、感情を表明したい、あるいは共有したいという欲求に従い、書き込んだり話したりしているだけである。自分はこっちに行きたいと思う、だからこっちに行く。他の誰かは反対側に行っているかもしれない。それでいいじゃないか。感じたものが違ったんだから、違う場所に集まっているというだけの話である。

ファンがよくいう「嫌いならなんも言わなけりゃいいのに!」それはアンチアンチであり、同じ穴のムジナだ。またそれも、ファンとアンチの本質的価値が同じであることと同様アンチアンチも同じ価値である。

みんな同じだ。それを理解しよう。逆説的だが、それによって我々は分かり合えるようになれるかもしれない。