今日初めて「ありよりのなし」という言葉がナチュラルに用いられる現場に遭遇したのだが、違和感が凄まじい。 なぜか。「あり」なのか「なし」なのか、自分の意見をどちらかの方面に落ち着けたいという意思が感ぜられないからだ。 「ありよりだけどなし」なら分かる。「あり」の要素を含みながらも総合的には「なし」ということだ。 「なしだけどありより」などでも分かる。総合的には「なし」だが、「あり」の要素もあるため、自分としては「あり」の部分を重要視したいということだ。 しかし「ありよりのなし」には逆接が含まれないため、国語の授業的に読解するとどこにも最終結論が見当たらない。 これはどういうことか。ここで、三つの理由(及びその複合)が考えられる。

a.自分の判断にかけると「ありの要素を持ちながら総合的にはなし」という事実だけを述べている。どちらに「したい」という一切の意思を表明しない b.逆接が省略されている c.全く新たなニュアンスを持つ

当然使っている本人らに聞いてみなければ結論の出しようがないが、普段関わりの無い人間と話すというのは極めて面倒な行動である。 そこでネット情報を漁ってみる。するとどうやら、aに近いことが分かった。というか、含意として曖昧に濁したいという部分を含むものらしい。 ここで少し考えて、自分が凄まじい違和感を感じた理由がなんとなく掴めた。 自分はあらゆる物事について、自分の意見を1か0かのどちらかに落ち着けようとするきらいがある。勿論片方を全面否定してもう片方を全面肯定するとかそういったものではなく、あくまで両者側の意見を踏まえて吟味したうえで、その結果天秤がほぼ釣り合っていようと、ちょっとでも片方に傾いていれば一個人の意見としては一旦そちら側に与する、のようなものだ。天秤のバランスが変われば意見は変わるし、不安定なバランス状態であれば些細なことでコロコロ変わることもありうる。しかしその時々において、一応どちらかには決めておきたいのだ。 AならA、BならB、どっちでもいいなら完全にどっちでもいい。 しかしこの言葉は違う。どちらに傾いているというboolean型のデータではなく、どのように傾いているというsigned float型の情報を伝えている。これは驚くべき違いだ。 自分の中にアナログなデータ値がないという訳ではない。むしろ大量にあるのだが、自分が外界に吐き出す言葉は論理的にしたいという一種の個人的な偏向を自分は持っている。論理には曖昧さが無い。だから必ず「結局どっち」をもっていなければならないのだ。 例えばMnistの分類をするMLPは、出力層に10のノードがある。各層のノードの値はそれぞれアナログだが、出力結果としては10のノードの内最も値が大きいものを結論とする。つまりデジタルな値だ。自分もそのように、内部にアナログな量を抱えつつも主張はデジタルに通してきた。 ところがこの言葉は、アナログな生データを相手に伝える。考えが飛躍してしまうが、これはつまり、個人がネットワーク的な知能の部品となることを意味しているのではないか。丁度MLPの隠れ層のように。個人が部品となり、集団全体として効果的に知能を発揮する。 なんだ。なんて社会的なんだ。若者言葉が有機的なネットワークの伝送路となっている。これは革命だ。人類は個人主義の時代を越え、一つの巨大なニューラルネットワークとなるのだ! …最後のほう半分ギャグでした。

でもとにかく、話して伝える概念というのはデジタルな論理だけでなく、アナログなデータでも良いというのは一つの学びとしてあるなと思った。おわり。