考える我は一体どこに干渉できるのか
休みで動かず体力が有り余ってるはずなのになにもやる気がしない。眠気が発生し、ではもう寝ようかと思ったら急に調べたい興味などが湧いてきたりする。それは不思議と朝になると消えていたりもするのだ。
やる気というものはとにかく自分の思うとおりに発生すると限らないものらしい。無相関とは断言できないかもしれないが、少なくとも思い通りに出るものではない。
最近なにかに熱狂した気がしない。好きな作品のライブに行ったときなどは流石に盛り上がったりしたが、かつては家で布団にくるまっていようが好きな作品の続きの妄想や、自分の作りたいゲームのストーリーなどを考えていたような気がするのだ。それが最近はない。何かに熱狂していた時は幸せだったという記憶が、再び何かに熱狂せねばならないと本末転倒な焦燥を引き起こすばかりである。
どうやら愛だの情熱だのというのも、自分の思うとおりに発生すると限らないものらしい。どうやらライブなどのような場・空間とは相関するらしいが、少なくとも布団の中においては他の変数による影響がはるかに大きく、その変数の中に自分の思考は含まれないらしい。
最近、時々物忘れをする。まだ若いのにたまったものではない。何かを調べようと思って検索エンジンを開こうとするとその前に通知などが入り、それのチェックを終えると何を調べようとしていたか忘れていたりする。
記憶よ、お前もか!どうやら記憶もまた、思考に対して常に協力的な相手とは限らないようだ。いや、彼なりに必死だが応えられないのだろうか?鍛えてやりでもすればよいのだろうか。
最近、嬉しいだの悲しいだのに心の底から浸った記憶がない。嬉しいことが起きたら心の底から喜び、悲しいことが起こったら悲しむべきであると、それが健康的な人間らしさではないかと、自分の思考は言っている。しかし、思考が「喜ぶべき!」と言ったときにも「悲しむべき!」と言ったときにも、最近の自分の感情は寝そべってばかりのように動かないのだ。もっと前には逆のことがあった気もする。友人と喧嘩をしたとき、思考が「落ち着け」「平静にしてろ」と小声で言ったものの、感情は腕の神経に電気信号を送ることをやめなかった。
感情もまた、必ずしも思考に従うものではない。
意思も、感情も、情熱も、記憶も、どうやらこの思考に対して常に協力的な相手ではないらしい。時に従い、時に無視し、好き勝手にやっているような感覚がある。
全く言うことを聞かない奴らだとは言わない。しかし、君らよ、最近の我々は少し結束力が無さすぎじゃあないか。
もしも己の内の彼らを、思考の下に協調させられる人間がいたら、非常に憧れる。それはIQが高く賢いとか、社会的人間として立派であるとかではない。同じ入力(外部環境)に対し、思考が「悲しいことだ」と判断するときは感情も「悲しい」と出力する。思考が「今はやる気を出す時だ」と判断するときは意思も「やる気を出そう」となる。そしてそれらが意識されることなく行われる。そのような人間がいるならば、非常に憧れる。自分が憧れるのはそのような人間の思考ではなく、そのような人間の内なるそのような状態である。
今の自分はそれとは程遠い。思考以外の彼らが、まるで自分の外部にある物体のように感ぜられる。
例えば、風がふいにびゅぅっと吹いて「うわっ寒っ」となったり、うっかりコップを落として「うげっ」となったりするのと全く同じように、やる気が下がるのを感じて「あーあ」などと思うのである。
例えば、授業中に騒ぐ人に腹を立てたり、理不尽なことを言う上司を疎んだりするように、面倒くさがって動こうとしない感情に対して「もうちょっと動いてよー」などと思ったりするのである。
自分の体の操舵権を握るのは思考だけではないことは上に述べた通りだ。思考は、一体どうやら目の前で意思や感情などが舵輪をああでもないこうでもないと回しているところを傍観し、時々おずおずと「あのぉ…」と提案をするかの如くである。
「考える我」は多くの哲学者が崇め奉ってきたものではないかと思うのだが、きっと彼は人心という組織の中でただの一構成員に過ぎない。自由意志が存在するかは別の話として、彼はそんなに大したヤツだろうか?考えてもモチベは上がらんし、考えるだけでテンションが上がったりもしない。意思や感情が勝手にワーワーやってるところに、後から「ああで、こうだから、いいんだ」とか「ああ、あれだめじゃないか」などとコメントするのが最近のこの「考える我」の日課である。
こうしてみると、一体この「自分」はどこに干渉できるのか?考えて、考えて、考えても、それは外に影響しない。心も体もただの神経組織などであり、それらが物理法則に従って勝手に動いていくのを内側から見ている。たまにその考えたことを書き出そうなどと、何らかの要因でやる気が上がれば、こんなところに吐き出すくらいだ。そのくらいだ。
いったい「考える我」など、どこに干渉できるというのだろう?