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タブーとタガ

私たちの身の回りにはタブーと呼ぶべきものが数多くある。

その中には実用的意味を持つものもあるが、ともすれば全く意味のない、不利益なだけのただの縛りのようなものも少なくない。

そうした縛りのようなタブーは全て消し去ってしまうべきなのだろうか。それは恐らく出来ない。「消すべきではない」ではなく「出来ない」に近い。

タブーは社会の仕組みや認識の在り方を決定づける。中身が何にせよ必要なもので、要石とか、見当のようなものである。材と材との間には杭が必要で、事物と事物との間には輪郭が必要だ。それが無ければ全ては「訳が分からなく」なってしまうのである。そのためそれはもはや無意識的に、反射的にすら避けられる。

「タガ」という言葉がある。元は樽や桶にはめて形を保つための輪っかのことだ。それが転じて今では何らかの規律を指す言葉になっている。「タガの外れた」状態ではまともな生活をすることはままならない。何かしらのタガがあるからこそ正常に日々を送ることができるのだ。人間は時に「タガを外す」ことがある。「羽目を外す」と言った方が伝わりが良いかもしれない。そうしたことも時には必要で、たまにそういう要素が挟まることによってリフレッシュできる、活力が得られるという面もある。しかし常なる日常においてはタガが必要で、それがあるからこそ秩序が保たれている。タブーとタガは表裏一体の関係にあると言える。

しかし時には、今あるタブーを解放しなければいけないこともある。一時的にでなく永久にだ。そういう場合は新たな構造が必要とされている。しかし考案のために必要な思考の仕組みは既存の構造に依っているのだから、それは容易なことではない。

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オタクの愛について

自分は(主にオタクの言う)愛とは何かをちょいちょい考える。きっかけは単純で、SNSなどではこの作品には愛がある、ないといった言論がどこでも見受けられておきながら、その根拠には愛を感じる感じないといった直覚的な感想しかないからだ。

世の中には色々な愛の形があるのだから、むやみやたらと厳格に決めつけるべきではない(決められるものでもない)という考え方もある。自分はそれに半分は同意するが、半分は同意しない。

半分同意する理由としては、愛だ何だはそもそもあまり言葉で語ってはいけないものかもしれないからだ。言語以前の何かとして存在するならばそれは言葉で語った瞬間別物になってしまう訳で、愛というものが大事にするべきものであるならば言葉で語るべきではないことになる。

半分同意しない理由としては、やはりみんな愛について語っている、語ってしまっている以上そこには「愛とはこうだ」という(それが多少曖昧なものであれ)何らかの合意が存在するとしか思えないからだ。合意が存在する以上、その合意の内容について研究することは可能な筈である。

もう一つ同意しない理由に、何でもかんでも愛だと言い張ることが可能な世界はやはり認めることが出来ないという点がある。愛が大事なものだという仮定の下では、どんな非道な行いも愛であるならば何らかの形である程度の尊重がされるべきということになりかねない。その非道な行いに抗う方もまた愛なのだという考え方はできるが、そうすれば何もかもが愛ゆえにと言えることになり、今度は愛という言葉が存在する意味がなくなってしまう。そういう馬鹿馬鹿しい世界観を探求してもまるで仕方がない。


自分の問題意識として、二次創作は愛と言えるのかというものがある。

自分の感覚として、愛は純粋な「愛する側が愛される側に向ける」感情であろうというものがある。AがBに向ける感情の中には、AからBへの愛であるものもあればそうでないものもあるだろうが、AがCに向ける感情はそのどの要素をとってもAからBへの愛ではあり得ないと考える。

さて、二次創作は愛だろうか。そもそも二次創作はどういうモチベーションで行われるかというと、原作に対するある種の感情の表出であったり、魅力を伝える目的であったりだと思うのだが、ある種の二次創作は承認欲求を満たすためでもある。そして重要なのは、前二者と後者は明確な区別が出来ない。

承認欲求を満たすためであれば、それは原作への感情ではなく視聴者閲覧者への感情なように自分には思われる。だとすればそれを愛と呼ぶことは出来ない。しかし問題なのが先ほども言ったようにそれらの区別ができないということだ。それは二次創作作品を見る側だけでなく、場合によっては作る側にとってすらそうでありえる。つまり神の視点の導入による「真に愛がある」「真に愛がある訳では無い」の仮定すらできないかもしれないということだ。

この問題点に一定の解決を与える考え方について、最近たどり着いたので説明する。


最近Twitterで少し面白い意見を読んだ。曰く、昔のオタクは作品に対する知識自慢などで愛の深さを競い合っていたが、現代ではインターネットで作品知識など容易に手に入るようになった結果、今のオタクは推しにつぎこんだ金額などで愛の深さを競っていると。

要は愛の形が変化している、愛の形が複数あるということだが、自分が思うに重要なのはそこではなく、愛の定義が作品でもその人自身でもなく周囲の人間に依存しているという点である。

ここから類推するに、このような行いが愛である、という認識自体は文化によって変化していて、それがたっといものであるという認識だけが共有され続けているという風には言えないだろうか。人は好意を持つ対象に対して様々な感情を向けるが、それが愛であるという承認は他者によってでないと行えない。そして彼らは、自分の持っているその抑えきれない感情が愛と呼ばれるものであるという承認を求めている。

人間同士であれば感情の対象自身がその感情を愛であると承認してくれる。しかし、事物に対するオタクはどれだけそれに感情を向けてもそれ自身は彼ら1人1人自身の感情を愛であると承認してくれることはない。

当たり前の話だが、知識自慢にしても金額自慢にしても二次創作にしても、それ単体ではそれを愛であると定義する者(及び愛でないと定義する者)はいない。誰かに愛であると承認あるいは定義されることで初めて愛であったということになる。

作品の二次創作を公開・頒布したりする営為もこのモデルによって説明できる。その作品に愛があるかどうかという話ではなく、誰にも見られていなければ「愛である」も「愛でない」もそもそも「存在しない」のではないか。公開し文化の構造の中に置くことで初めて愛の概念が付与されるのだ。

あるいはこう考えることも出来るかもしれない。事物に対するオタクは、愛情の対象それ自身が泣きも笑いもしないために、対象それ自体ではなくファン集団の意識や無意識の上に共有されて存在するそれの「イメージ」に対して愛を示している。それによって仮象的にそれ自身から承認を受けている。

結論としては、愛の定義は文化依存のものであり、時流に流されない定義というものは無い。ただし文化ごとに「これが愛だ」というぼんやりとした合意は存在し、そして何らかの意味で愛は素晴らしいもの、価値あるもの(ときに恐ろしくもあるかもしれないが)ということが共有されている。そして意識を持たない事物に対する愛情の存在を認知・承認されるために、オタクは他者ないしは「界隈」を利用しまたかつ利用される。

ここで一点補足しておくと、確固たる愛の定義が自己の中にあるならば自己承認が可能であり、その場合少なくともその人自身にとっては間違いなく愛であるということができる。しかし、そのようなタイプのオタクはどれほどいるのだろう。正直言って、予想もつかない。滅茶苦茶にマイノリティだという気もするし、案外それなりにいるのではないかという気もする。


最後にここまで議論してきて疑問を呈したいのだが、果たして愛を持っていること自体に、実際どれほどの価値があるだろうか。

価値はそれこそ価値観という言葉通り、個人の主観ごとに異なっているし異なっていることがそれなりに認知されたものである。愛には価値があるということはそれなりに共有された価値観だが、上の議論で確認した通り、愛とはある種の何でも中身を決められる箱であり、ただのプレースホルダとしての役割が大きい。

これは自分の価値観であることをことわっておく。あるものに対して、愛があることは良いことかもしれないが、愛が無ければいけないということは決して無い。なぜならば価値は別の場所にあると考えるからだ。「それ」に触れた個々人が救われること、何らかの形において精神的に満たされること、そこに真の価値がある。

それはとても個人的なものだ。救いは完全に個人ごとの価値であり、意味であり、お話である。ゆえに共有され誰かに承認を受ける必要性が無く、本人の内において完全な価値として存在する。真に価値があるのはこちらの方であり、愛がある、無いといったことにあまり大きな意味はないというのが自分の考えだ。

しかし、完全な個人の価値である救いは、逆に言えば共有が不可能でもある。もともと、別の人間が全く同じものを、同じ世界を見ることは土台不可能だ。しかしそれでも人は共有することを欲する。救いとて同じなのではないか。

共有を欲する?既に「それ」によって救われた、心は充足されたというのにそれ以上何を求めるのか?しかし完全で徹底的で最終的な救いなど存在しはしないし、また個人として救われたとてそれは他人との連関の中に配置される人間として救われたことを意味しもしない。ゆえに人は見える形、共有できる形で「それ」の素晴らしさを体現し、世界を讃える必要をどうしようもなく感じてしまう。それが愛ではないだろうか。

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二次元と三次元の境界

母がドラマを見るので自分もちょっと見ていた。自分は実写ドラマというものをあまり見ないのだが食わず嫌いに近く、見てみるとあんがいストーリーも面白くて見てしまったりする。が、自分はどうも最近のドラマでたびたび出てくる漫画・アニメのキャラ的な文法だけは苦手だ。二次元の世界に出てくるのはいいのだが、実写になるとダメだ。

自分はシン・ゴジラが好きなのだが、それに出てくるパタースンも苦手だ。好きなものの一部ですら苦手なのだからしようがない。

実写作品にしても漫画・アニメ作品にしてもその物語はフィクション、虚構であるという点については同レベルのはずなのだが、同じ文法が登場して違う受け取り方をするということはやはりどこか違うレベルの虚構として受け取っている気がする。

実写ドラマの世界をアニメ・漫画と同じ地平の虚構として自然に見られるとしたら、そこから見えるのはどういう世界なのだろう。

現実と二次元の区別がついていない、とオタクを糾弾する者ほど実はそっちの方が現実と虚構の区別がついていないとする論があるが、意外とメジャーストリームの文化の方が二者の境界が曖昧だったりするのだろうか。思えば自分は現実の人間に対して「この人はそういうキャラ」という概念を持ち込むのにも嫌悪感があった。

そう考えると、自分は(主流文化圏に比して)リアルとバーチャルの区別が付きすぎたオタクの側なのだろうか。

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複雑性と本質

自分は何かにつけ、シンプルで本質を切り出したような風体の作品が好きだ。

例えば優れたドット絵というものは、微細で複雑な描き込みを取り払いつつ、最小限の情報量で的確にキャラや物体などの存在が伝わるように出来ている。

シンプルな線や塗りで最大限を表現するという意味ではセル画などもそうだ。複雑な陰影のグラデーションも無ければ細かい線描もないのに、それを見ると確かにその世界のものとしての存在感がある。存在としての確からしさがある。そういうのをすごいと思う。マリオ64やぐるみんなどのローポリな3Dモデルも好きだ。

あとは数式。極めて単純で美しいシンプルな数式が普遍的な物理法則を表していたりする。ダランベルシアンで表されたマクスウェル方程式など、初めて見たときは本当に感動した。数式はまさに切り出された本質に他ならない。

アニメや漫画・小説の物語の類にもそういうものを見ることがある。極限まで余計なものが削ぎ落された物語には登場する人・物全てに意味があり、1つの大きな柱のために全ての流れが意義を為していて、ジェンガのように1つでも下手にいじれば全てが崩れてしまうように思われる。それでいて全体を見渡してみると研ぎ澄まされた刀のように力強く美しい。天衣無縫というものだ。

こうしてシンプルなものこそが素晴らしいようにつくづく思っていた。余計なもの、無駄な複雑性が無いことこそが美しさの根源であると。少ない情報量で大きな理を為している、単純な内容で大きな本質を伝えているものだけが美しいと。そう思っていた。

しかし最近、自分の好きなコンテンツの中に、それの反例と言うべきタイプのものが浮かび上がってきた。それは「量的な複雑性そのものが本質である」というタイプのものだ。

一癖も二癖もあるキャラクター達がぞろぞろ出てくるタイプの作品がある。そのキャラクター達は個性的ではあるが、ある種交換可能でもある。聞こえは悪いが。つまり個性が強いキャラクターでも、別の強い個性を配置すればそれはそれでちょっと別の物語になるだけで成り立ってしまうだろうなというタイプのものがある。ネウロの犯人役などがそうだ。彼らは「個性的」ではあるが、必ずしも「そのように個性的である必然性がある」とは限らない。個性が強くても交換可能性があるとはそういうことだ。

しかし個性的なキャラクターがやたらめったらぞろぞろ出てくる、「複雑」な物語作品が必ず不格好かというと、どうもそうではなさそうなのだ。

大量のキャラクターたちが各々に芯を持ち、それらが様々な時系列上でn体問題がごとく相互に影響し合うものがある。そういう作品は「複雑」で、時にその複雑性の一部は交換可能であったりもするが、「複雑であること」自体をそぎ落とすことは出来ない。個々のごちゃごちゃを見てみれば作品の本質に関係ない余計なもののように見えることもあるが、それらを削いでしまえば作品の本質が変わってしまう。「複雑な秩序が形成されていること」自体が本質だからだ。

そうしてそういう作品が、そういう予測不可能な世界が、最終的に全てが交換不可能な意味を持って1つの答えに終着するときには、そこには度肝を抜かれるような衝撃がある。

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チャンネル?

自分はYoutubeをはじめとする動画サイトにおける「チャンネル」という言葉に対してずっと違和感を感じている。この感じはどこから来ているのだろう。

「チャンネル」の語義を辞書的に調べてみると元としては「経路」であり、そこから情報の伝送路である、テレビ・ラジオの各放送局周波数帯の意味になったようだ。この感覚は自分と大分あっている。

テレビは常に情報を「流して」いる。チャンネルを合わせればそこには唯1つのその時流れている情報だけがあり、蓄積が残っていたりはしない。

それに対して、動画サイトは投稿した動画をリスト化し、いつでも見られるようにしている。それは自分の感覚として、情報の「経路」というより「公開展示場」に近い。そこには蓄積があり、複数のコンテンツがあり、受け手による閲覧の選択可能性がある。これがテレビとの差だ。

中を複数の情報が流れ、時に留まることもあるそれもまた「経路」であると言うことは勿論可能だ。しかし個人的なこう、何と言うべきか、願いとして。動画サイトの提示する概念が既存のテレビ・ラジオが提示した概念の後追いでしかない、ただの改良ブツでしかないという世界観はとても寂しいように思うから、いい加減に「チャンネル」というネーミングは変えてほしいと思う。

Youtubeは一人一人がチャンネルをもつという点を新奇さとして打ち出すつもりだったのだろうと思う。しかしインターネットで誰でもいつでも何でも見れることが標準化した今チャンネルという概念自体が古臭くはないか。そして実際問題として、「チャンネル」よりも新しいものを提示できているではないか。ならば相応の名前を付けて欲しいと思う。どんな名前を付けるべきか知らないが、仮に甲としよう。甲はチャンネルにない長所もあれば、チャンネルにない短所もある。そこを明確化する意味でも別の名前を付けて欲しいものだ。

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新しい懐かしさ

まず、前置きとして自分がこれまでに大ハマりしたコンテンツについて書きたいと思う。まず洞窟物語。そしてスプラトゥーン。二号兄貴。そして一番最近のがけものフレンズだ。

自分はそれらに何か共通する性質を感じていた。それに内在した性質ではなく、自分が感じた感触に関する共通性だ。それの言語化を試みたいのだが、要約するにそれらは新しさと懐かしさだったのだと思う。もっと詳しく説明しよう。

新しさというのはあまり言うまでもないと思う。要するに今まで自分がみたことのないもの、それがその自分にとっての新しさだ。自分はチップチューンとドット絵で心に響く音楽と練り尽くされた世界観を演出することができるとそれまで知らなかったし、インクを塗ることに命をかけるお祭り好きでヒップホップなイカを見たことがなかったし、子供でもわかる易しい言葉でどこまでも深く優しい世界を作れることを知らなかったし、編集されたホモビ男優の喘ぎ声でガチ感動できるとは思わなかった。

新しさは分かりやすい。しかし懐かしさとは何か。自分が定義を与えるに、それは拠り所とできるあり方、安心できる場所だと思う。要するに「地面」なのだ。

全く不安定な世界の中に現れる刹那の美しさは、それはそれで美だ。しかしそれは拠り所にはなれない。寄りかかれば崩れてしまう砂の城だ。それはどれだけ素晴らしくても自分が定義する所の「懐かしさ」を持てない。

誰かの礎となれるものだけが安心感を誘起出来る。例えば優しい田舎のおばあちゃん。彼女は力で言えば大人の男に到底敵わないだろう。しかし孫に「あんたなんてこの世に要らないんだよ」と言いつけることが果たしてありうるだろうか?絶対にない!そう、礎になれるとは物理的な力や丈夫さの話ではない。絶対性、揺るがなさ、それは安心感だ。

懐かしさのある世界。そこには何かしらの「当たり前」がある。それはちょっとやそっとで決して揺るがない。誰かがそれに疑問を投げかけても、そこの住人はきょとんとするばかりだろう。「だって、事実でしょう?」という具合に。それが安心感だ。私たちはそれに触れる。住人がそれを当たり前だと思っていることに、そしてそれが実際にどう見ても「当たり前」であり、ただの事実でしかないということに。私たちはそれに触れるうちに疑問をもつことが出来なくなっていく。「疑問を持つことを我慢して自分の中で抑える」とか、「怖い人に脅されて疑問を表に出さないようにする」とかじゃなく、自力で、自然に、疑問を感じる能力を失っていく。そうして私たちはそこの住人になる。それこそがその当たり前が「地面」であるということ。懐かしいということだ。

そういう、何かしらの「当たり前」がある世界の中で、その「当たり前」が見たこともない「新しさ」を持っている。それこそが自分の好きなものに通底するものだ。懐かしく、新しい。それはつまり新しい大地のことだ。

詩的に言うならば、自分は常に大海原を航行している。既知の有名な「島」や「大陸」の上でのんびりと生活している人もいるし、それも良いものだろうと思う。また、一生涯を海の上で過ごしてそれを愉しみ謳歌している人もいると思う。しかし自分は新しい「地面」を知りたい。まだ知らない土地を知りたい。それが自分の衝動だ。動機だ。のどの渇きだ。まだ人の少ない大地や生まれたばかりの陸地、それは「新しさ」であり、自分はそれが好きだ。

もしも自力で完全に新しい陸を1つでも見つけたとしたら、自分は舞い上がって喜ぶと思う。死んでもいいと言って泣き出すかもしれない。それは生涯最高の喜びだろうと思う。

しかしそれでも、自分は再び海に漕ぎ出すだろう。新しい大地を見つけ続けること、それが自分の望みだからだ。


追記

上記に関連したことを少し語ろうと思う。あまり個別の作品について知らない人は読んでも良く分からないと思う。

自分はスプラトゥーンは好きだがスプラトゥーン2はそうでもない。単にSwitchを持っていないくて未プレイだからというのもあるかもしれないが、興味の時点で惹かれてもいない。

自分は何かにつけて続編というものをあまり好意的に見ない。(嫌う訳ではないが。)それはクオリティの問題ではなく、それは「地面」ではないからだ。初代が「新しい地面」だったとすれば、続編は内容の巧拙によらず「既知の地面の上で踊る者」でしかない。だから別に嫌う理由もないが好意的に見る理由もないのだ。

次にケムリクサというアニメについて。けものフレンズと同じ監督であり、自分はあれにも大層ハマった。ではケムリクサは「新しい地面」ではないのかと問われたら、自分は「そうだ、あれは違う」と答える。ケムリクサは「新しい地面」を見つける過渡の者たち自身の物語であり、地面そのものではない。だからこそ同志として、先達として、先生として尊敬できる。ケムリクサの主人公らは最後に「新しい地面」を見つけるがその内実は全く描かれていない。だから一般性がある。だから一般の「海の航行者」の先達として尊敬できる。それが自分の中でのケムリクサの立ち位置だ。作中の言葉を用いて「ケムリクサが『好き』だ」と語る人は多かったが、自分はあの手のノリには今一つ乗れなかった。別に他者のそういう言葉を否定するわけではないが、自分にとって何となくそういう感想はどこかレイヤーを間違えている気がするように思われるのだ。

また、あまり作者周りのことを関連付けて作品を語るのは好きではないのだがあえて言及する。監督脚本がおなじたつき監督だからか、けものフレンズとケムリクサをクロスオーバーさせる二次創作は多いが、自分はどうもそれが苦手だ。なぜならば、自分はたつき監督もまた「何度新しい陸を見つけても海に漕ぎ出す航行者」であることを疑っておらず、また「けものフレンズもケムリクサも『たつきランド』という既知の同じ地面の上で踊る者でしかない」という風には決して思いたくないからだ。

それから胎界主という漫画があるのだが、うん、ええと、この記事の「海」と「陸地」の比喩は正直にばらすと大体胎界主由来の隠喩だ。全人類は胎界主を読め。全話無料だぞ。

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物書き

自分は文を書くのが好きだ。誰かに何時々々までにこれを書けと指示されたり、こういうお題でこういう制限で書けと言われると途端に萎えてしまうのだが、とにかく自由に描く分には大変文を書くのが好きである。

それでこうしてサイト内で色々ものを書いているのだが、しかし、「黙して成果を出す人間がえらい」「批評一辺倒の人間はあまり良くない」「自分語りするやつはだめ」みたいな価値観もそれなりに頭に入っている。おそらくインターネット経由で伝わってきて内化されてしまった倫理観なのだが、まあ事実としてそれに反した人間が破滅していく様は嫌と言うほど見たので、自分でもそれなりに納得しているつもりでいる。

これらのことから考えるに、自分は小説を書くのが最適解なのだが、不思議なことに自分には、フィクションはイラスト、漫画、ゲームなど、絵を伴うもので表現したいという願望がある。

おそらく自分は文を書くのが好きではあっても得意な訳ではない、下手の横好きの自覚があるからそうなるのだろうと思う。あるいは、自分の表現したい物は言葉で表現しにくい、あるいは表現されべきではないところにあって、それをわざわざ文学の俎上に持ってくるだけの自信がないからそういう了見になるのだと思う。

そういうことだから、このサイトでは低俗な自分語りも批評文も雨後の筍のごとくこれから増えていくだろうと考えている。それは自分の作りたい理想のサイトだろうか?インターネットの一個人としてなりたい理想の姿だろうか?と聞かれると、首を横に振るしかない。それでも何かを書いて、公開していたいから、書くことになる。呆れるのが正しい。

技術記事など、実用枠は別物だ。つまり成果であって、後ろめたい何かではない。これから増やしていきたいと思う。

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人にものを教えたい

自分は他人にものを教えるのが好きだ。好きと言うか、もはや自分の全知識を友人や先輩後輩と共有しなければならないという強迫観念に近いものがある。その源泉がこの間分かった気がしたので、書く。

1つには、自分が自分の知識を供与するという形以外のコミュニケーションが下手ということがある。つまりコミュニケーションの手段としてものを教えるほかないということだ。これは分かりやすい。しかし、これを根本に置くと、全ての知識を供与した瞬間他のコミュニケーション方法に移らなければいけなくなるはずである。だから全てを共有しなければならないという強迫観念を説明できない。だから2つめの原因について詳述する。

まず自分は、自分の判断に自信がない。物事を決めるにあたっては、何かにつけて他人の目線を取り入れたがる。(その決定の責任を自分一人で負うべき場合にあってもだ。)かといって、自分の考え事は、自分より情報量が少ない人間では当然判断しえないことが多い。

だから、全てを教えようとする。自分と同じか、より多い情報量を持っている人でないと、自分の判断にまともな甲乙を付けられるはずがないから、全てを教えようとする。全部の知識を共有した上で、「さあ、どうだ」と聞くことを欲する。

高慢な物言いになるかもしれないが、専門の知識にかけて、自分の知識量は同年齢の並大抵の人よりは割と多いものだと自負している。そういう人間が上に挙げたようなへきをもっているのだから厄介極まりない。

教えること、人に知識を供与すること自体は(一般論として)良いことだ。しかしそれが度を行き過ぎると無理な知識量の押し付けになることは明白である。この間、大学のサークル内での共同作業でこの癖が発動して、そこまで詳しい訳ではない仲間に意見を求めようとした結果、その仲間に「俺はその手の知識があんまりないから、君がそうした方が良いって言うならそうするよ」と言われた。全くごもっともとしか言いようがない。自分一人でも自信を持って判断が出来る人間になりたいと思う。

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Twitterが精神に与えた影響

6年間やった結果、自分はあそこにいるべきではないという結論に達した。

自分は今この記事の序文を書いている。しかし気持ちが収まらない。今すぐにでも話の要点を、キャッチーで強い言葉でこの辺に書きたくなっている。しかし元来自分はそういう志向ではなかった。自分はお世辞にも文が上手い人間ではないが、最低限の論理的構造自体は組み立てながら物を書くことを志していた。

これがまさにTwitterの与えた影響の一だ。思考が140字に切り詰められている。Twitterに最適化された文章構成法だ。ふらふらと何の意識もせず書いた上の段落を文字数カウントにでもかけてみろ!142字、ニアミスじゃないか!この段落だって、きっと、ほら!

真面目な話、気付かないうちに自分は長い文章がそのまま頭に入りにくくなっているんじゃないのか。あるいは、書けなくなっているんじゃないのか。最近よくがんばって活字の本を読んでいる。しかし、たびたびすっと頭に入らないことがある。書き言葉の方はきっともっと深刻だろう。いまこうして記事を書いていて、全く筆が捗らない。文書の全体的な論理構成というものは組めても、それを長文にする能力が衰えている。常に百数十字で分割された何かを脳が勝手に作り出しているのだ。

第二に、インプレッションに対する欲求が肥大した。あえて「承認欲求」と表現せずに言う。「インプレッションに対する欲求」が肥大した。

自分の承認欲求(多分自己実現欲求も混じっている)はおそらく強めな方だ。これはきっとSNSとは関係なく元来の心根だ。それだからこんな自己主張用のサイトを作ってそこで色々やっている。そうして、独自路線をやっている限り、自分の欲求と達成感は周囲と干渉することなく「自分がどんな面白いことができたか」に依存してくれる。

しかしSNSをやっていると、他人からの「いいね」が欲しくなる。自分にもこんな感情がしっかり根を張るとは驚きだった。初めのころはほとんどそういった反応など無いものだから、気兼ねなかった。しかしちょいちょい反応が来るようになってくると、それを期待している自分をそこに発見する。そして恐ろしくなる。何が恐ろしいかといって、自分の、自己実現欲求が、「いいね」という特定の会社の特定の枠組みに依存した自己実現とは程遠いレールに乗っていくのだ。また、「いいね」を投げる人間の交換可能性に気付いて、人間が物の数になっていくのだ。恐ろしくなっていいねとRT数とFF数を非表示にするプラグインを作った。しかし通知は消えないので、設定で出来る最大のシャットアウト設定としてFF以外からの通知を消した。しかしFFの優しい人は良くいいねをくれたので通知がついた。ありがとうございます。そしてFF外の優しい人からの返信を自分は気付かず無視していた。自己嫌悪になった。もう限界だと思った。

第三に、インターネット上に放出したものを消して憚らなくなってしまった。

自分のインターネットへの書き込みの原点は多分、フリーゲームの集積サイトの各ゲームのページの片隅に設置された小さな掲示板だったと思う。激突要塞の掲示板でわやわやしていたのが最も古い記憶だ。その後2chにも足を踏み入れた。2chは基本的に全てを残すスタイルの匿名掲示板だ。最初に触れたものがそういう類であったから、自分には「インターネットに出たものは基本的に消えないし、消せないべきだし、残すべきである」というある種の倫理観に近いようなものがあった。しかし、Twitterではいとも簡単に過去の呟きが消せるし、容易に掘り出せないから大量のツイートで押し流すことさえできてしまう。あまりにも対照的なその環境は自分の倫理観を大いに揺らがせた。ネガティブな感情をツイートして後で嫌になって消す、といったことを普通にするようになってしまった。インターネットに出たものは消えないということがある種幻想だと肌で理解してしまった。

別段どっちの世界が正しいというものではない。そもそもそれはきっとこれから確立されていく部分なのだろう。しかし、「私たちは過去を消してもいい。私たちには忘れられる権利がある」というSNSの悪徳と「私たちは匿名である。掲示板上の全てのことは現実の自分とは切り離された何かである」という匿名掲示板の悪徳、そこに承認欲求が合わさるとあまりにも酷い訳の分からない怪物になる。それはきっと避けなければならないし、なってしまったら気付き次第自省しなくてはならない。自分はなっていた、あるいはなりかけていたんじゃないかと思う。それはあまりにも恐ろしいことだ。

過去を消すことの弊害とは、自分がどこからやってきたか分からなくなることだ。自分の生きている文脈が、物語が良く分からなくなるのだ。アイデンティティとは自己認識と他者からの認識の総体であるという。自他の境界線はそれほど強度の高いものとは限らない。Twitterは誰でも見れる公開日記サービスである。自分は友達がさして多くない。年単位で近況を報告し合っているような友人などゼロである。早い話が、自分は自分史を、Twitterに依存していた。それを編集したら、終わりだ。既に、終わっていた。

自分はTwitterをやっていてこういう変化がおきた。こういった変化が望ましいとは自分には到底思えなかったから、穴倉のような個人サイトに改めて籠り直したくなった。